空室へ向かうタクシー

午前二時二十分、空港ホテルのロビーにいた久我迅へ、立石美月から電話が来た。

「着くまで話してて」

車の走行音と、カーナビの案内が聞こえる。美月はタクシーの後部座席にいるらしい。

「どこへ行く」

「着いたら言う」

「新しい人の家?」

「そう思ってたんだ」

迅は午前三時の社員送迎バスで空港へ向かい、朝の便で海外赴任に出る。美月には知らせなかった。半年前、彼女から〈一緒には行けない〉と届き、それを最後に会っていない。

「腕時計、まだ動いてる?」と美月が訊いた。

「君が貸したやつなら、荷物に入れた」

「返してって言わなかったのに」

「返す機会もないだろ」

その時計は、迅が採用面接に遅れそうだった朝、美月が外して渡したものだ。裏蓋には小さく〈帰る時間を忘れない〉と彫ってある。

二時二十五分、ナビの音声が電話へ漏れた。

〈目的地、久我迅様宅まで、あと一・二キロです〉

迅は立ち上がった。

「俺の部屋へ行ってるのか」

「合鍵を返す。それと、直接聞きたかった」

「何を」

〈一緒には行けない〉の続き、届かなかった?」

迅の画面に、半年前のメッセージが再表示された。機種変更時に欠けていた二通目が、ホテルのWi-Fi接続で同期される。

〈今の会社のままでは一緒に行けない。辞めた。あなたの赴任先で仕事を探す〉

「俺は、赴任を断った」

「え?」

「君が来ないと思って。昨日、別の赴任を受けた。反対方向だ」

タクシーが止まる。運転手が〈到着です〉と言う。だが迅の部屋は今朝解約され、表札も外れている。

美月が小さく笑った。

「また、空室に会いに来ちゃった」

二時二十九分、ホテル前に社員送迎バスが着いた。迅が戻れば、赴任は取り消しになる。戻らなければ、今度こそ二人は地球の反対側へ離れる。

「時計、郵便受けに入れておくね」

「そこ、もう俺の郵便受けじゃない」

「知ってる。だから置いていける」

通話が切れた。迅は一度バスの扉の前で止まり、腕時計を見た。二時三十分。運転手に促され、彼は時計を外さないまま、空港行きのバスへ乗った。