空白のキューカード
深夜ラジオのプロデューサー、和泉岳はヘッドホンをしない。
派手な開襟シャツで副調整室に立ち、出演者へ手書きのキューカードを出す。言葉に詰まると、決まって一枚掲げた。
『沈黙も放送の一部』
パーソナリティーの稲見透子は、その札に何度も救われ、同じくらい苛立っていた。黙っている三秒は、話す三分より長い。
ある夜、生放送中のスマートフォンに、同居していた恋人からメッセージが届いた。
――荷物を持って出た。もう戻らない。
曲明けまで四十秒。透子は原稿の文字が読めなくなった。岳は『天気』『投稿紹介』『CM』と札を替えたが、彼女は首を振る。最後にいつもの札が上がった。
透子は七秒黙り、「こんばんは」とだけ言った。その後は何を話したか覚えていない。
放送後、彼女は申し出た。
「しばらく収録にしてください。生は無理です」
「生が無理なのか、黙るのを聞かれるのが無理なのか」
「どちらもです」
岳は慰めず、翌週の企画書を出した。リスナーから『自分の部屋の三十秒』を募集する。冷蔵庫、雨、隣室の足音。言葉のない音を流すコーナーだ。
「私が話せない穴を、企画にするんですか」
「穴を隠すなとは言わない。穴にも番組表を渡す」
初回、届いた音は二百件を超えた。炊飯器の蓋、深夜の信号、眠る猫の鼻息。透子は一つずつ紹介し、最後に自宅の空になった部屋の音を流した。エアコンと、窓辺の風鈴だけ。別れについては何も言わなかった。
それでも放送後、『うちの部屋も同じ音です』という投稿が届いた。透子は返信を慰めの数として数えず、番組の共有フォルダへ静かに保存した。黙っていても席が消えない番組にしたかった。
翌週、曲明けの岳が掲げたキューカードには、何も書かれていなかった。
「出し間違いですか」
ガラス越しに、彼は首を振る。
いつもの札は、黙れという命令ではなかった。言葉を選ぶ時間を、放送の中に確保する合図だった。
透子は空白を見つめ、マイクへ笑う。
「こんばんは。今日は、私の声から始めます」
岳は初めてヘッドホンを片耳だけ着けた。もう片方は、彼女が黙った時のために空けたままだった。