窓辺のにんじん花

料理教室の見本台から、一ノ瀬珠希の弁当が消えた。

春の行楽弁当の講座で、花形に抜いた人参、菜の花の卵巻き、桜色のおにぎりを詰めたものだ。撮影後に受講生と味見する予定だった。

珠希は見本を完璧に仕上げすぎないようにしている。家で再現できる形にするためだ。それでも今日は、大嶋が「孫に見せたい」と話していたので、人参の角をいつもより丁寧に丸くした。

教室に残っていたのは、助手の羽田、年配の受講生・大嶋、食材を届けた神尾。羽田は洗い物、神尾は納品書の確認。大嶋は「少し休んでいた」と窓際を指した。

見本台からはレシピカードが一枚なくなっている。窓辺には小型のリングライトが向けられ、教室のタブレットには通話終了の印が残っていた。

珠希がカーテンを開けると、弁当は窓台に置かれていた。蓋も開いたまま。大嶋が深く頭を下げた。

「食べてはいません。孫に見せただけです」

入院中の孫は、手術のあと食欲が落ち、食事の写真を見るのも嫌がっていた。けれど先週、大嶋が教室で作った不格好な人参の花だけは「次はもっと上手なのを見せて」と笑ったという。

大嶋はその一言を宿題のように大切にして、家でも何本もの人参を花にした。今日の通話は、孫のほうから初めて掛けてきたものだった。

今日、病室から電話が来た。大嶋は自分の弁当を落として崩してしまい、咄嗟に見本を窓辺へ運んだ。教室での通話は禁止だと知っていたから、珠希に頼めなかった。

「勝手にして、ごめんなさい」

「お孫さんは?」

「画面越しに、人参を一つ食べたいと言いました」

珠希は蓋を閉じず、タブレットをもう一度立てた。

「次からは、正面のライトを使ってください。窓だと逆光になります」

大嶋が顔を上げる。

「怒らないの?」

「見本は、食べたくなるために作るものです」

レシピカードの裏に、次回の配信時間を書いた。病室から参加できる小さな料理教室だ。羽田が三脚を準備し、神尾は余った食材を来週まで取り置けると言った。消えた弁当一つから、教室の席が一つ増えた。

味見の時間、珠希は人参の花を一つ口に入れた。少し硬い。大嶋も同じものをかじり、笑った。

「次は、もっと上手に煮ましょう」