端数までのバターケーキ
大河内美玖の初給料は、茶封筒に入った現金だった。
美容室で見習いを始めて一か月。閉店後の練習で指は荒れたが、客の髪を洗い終えたときの「気持ちよかった」が、初めて自分で選んだ仕事の手応えだった。家賃と光熱費を分け、定期代を封筒へ戻すと、手元には七百四十二円残った。
父からは朝、「給料が出たら二万円、家に入れなさい」と連絡が来ていた。美玖は半年前、家を出るときに十分な貯金を持たせてもらえなかった。父はそれでも、親への礼儀だと言う。実家にいたころは給料の入る仕事も、帰宅時間も、父が安全だと認めたものしか選べなかった。家を出たあとも、振込日だけは父の許可が追いかけてきた。払えないと返せば、戻ってこいと言われる。それが怖くて通知を開いたままにしていた。
帰り道の焼き菓子店で、小さなバターケーキが六百八十円だった。美玖は財布の硬貨を全部出し、六十二円だけ残して買った。
部屋で紙をほどくと、温めたバターの香りがした。表面は少し乾き、噛むと細かな生地がほろほろ落ちた。
美玖は包み紙の上で、ケーキを三つに折った。切る道具をまだ買っていないから、形はいびつになった。
一つ目を食べる。二つ目も食べる。空腹だったが、三つ目には手をつけなかった。明日の朝食へ残すためだ。
家にいたころ、食卓の菓子は父が帰るまで待つ決まりだった。自分で稼いだ給料で買ったものを、自分の都合で残す。それだけのことが、ひどく大きな決定に思えた。
美玖は父への返信に、「今月は入れません」と書いた。七百四十二円しか残らなかったことも、見習いの給料が低いことも説明しなかった。説明すれば、暮らし方を採点される。
送信後、六十二円を空き瓶へ入れた。小さな音が二度した。
残したケーキを紙で包み、冷蔵庫へ置く。明日の自分へ食べ物を残せる給料なら、額が小さくても、父へ差し出すためだけの金ではない。
包み紙の上の細かな屑まで指で集め、美玖はそれだけを食べた。三つ目の形は崩さなかった。