紅茶薬局の閉店札
早瀬弥生の薬局は、閉店後のほうがよく働く。
店の灯りを消すと、棚の茶缶が自分で蓋を開ける。眠れない客には菩提樹、冷えた客には肉桂、声が枯れた客には甘草。処方カードを読んだ銀の茶匙が量を取り、紙袋へ詰め、翌朝の受取箱へ並べる。定期客の代金は夜のうちに帳簿へ入る。
弥生は夕方六時に必ず札を裏返す。《閉店》は、相談次第で開くという意味ではない。
王宮薬局で働いていた頃、深緑の制服は袖が擦れ、襟の刺繍は消毒蒸気で縮んでいた。閉門後も貴族が裏口を叩き、『明日の会議までに痩せる茶』『眠らず働ける茶』を急がせた。辞職後の通話石には『特別処方』『至急対応』が未読で二十件残っている。
六時五分、帳簿の端に青い文字が浮かんだ。
《夜間定期調合、受付完了。前払い金を受領しました》
一日の稼ぎとしては控えめだ。けれど閉店後の時間を買い戻すには十分だった。
そこへ通話石が鳴り、元薬局長の顔が映る。
『大臣が今夜中に疲労回復茶を欲しいそうだ。配合を知るのは君だけだ。裏門を開けて待っている』
「行きません」
『大臣を待たせるのか』
「私はもう王宮薬局の者ではありません」
『礼金は望むだけ出る』
弥生は《閉店》の札を指で押さえた。
「私が欲しいのは礼金ではなく、閉めた店を閉めたままにする自由です」
『薬師なら苦しむ人を――』
「眠らず働くための茶を、治療とは呼びません」
通話石を伏せると、店内で茶匙がさらさらと動いた。必要な客の薬茶は、弥生が立ち会わなくても朝にはできる。
独立したばかりの頃、弥生は閉店後も店の奥で息を潜めた。戸を叩かれれば開けるべきではないか、薬師が休んでよいのかと迷ったからだ。ある晩、定期客の老女が戸の下へ手紙を差し入れた。《夜は眠ってください。明日のお茶を待てます》。その一文で、弥生は初めて灯りを消した。待てる人のために長く続け、待たない権力者のためには壊れない。それが彼女の新しい薬局の処方だった。
彼女は入口へもう一枚、《明日は昼から》の札を掛けた。湯を張った浴槽へ柚子を浮かべ、時計を見ずに肩まで沈んだ。