耳を出す閉館時間

香月堂いのりは、耳が隠れる長さより髪を短くしない。

左右へ少し張った耳を、子どものころ同級生に動物の名前で呼ばれた。それ以来、真夏でも髪を下ろした。風が吹けば手で押さえ、食事中も耳へ掛けない。蒸れた首に汗疹ができても、髪の内側なら見えなかった。

美容院では、耳が出ない長さを何度も念押しした。似合う髪型より、隠せる髪型。短く切りたいと思う夏が来ても、予約画面を閉じるところまでが毎年の決まりだった。

いのりが勤める図書館で、閉館一時間前に空調が止まった。復旧は翌朝になるという。八月の熱気が書架の間に溜まり、紙と埃の匂いが濃くなる。

利用者が帰ったあと、いのりは返却本を棚へ戻した。首筋を汗が伝い、髪が張りつく。片手で本を持ち、もう片手で髪を浮かせながら歩くので、作業はなかなか進まない。

事務室には輪ゴムしかなかった。いのりは髪を一つに結びかけ、耳が全部出るところで手を止めた。誰もいない閉館後なら結べる。けれど正面玄関にはまだ、遅番の警備員と返却ポストを使う人が通る。

髪を下ろせば、いつもの自分に戻れる。

そのとき、抱えていた本の一冊が汗で腕から滑った。床へ落ち、ページが扇のように開く。いのりは慌てて拾い、濡れた手をエプロンで拭いた。

本を傷めないための仕事で、耳を隠すために本を落としている。

いのりは髪をまとめ、輪ゴムを二重にした。耳の輪郭が冷たい空気に触れる。事務室の鏡は見なかった。

隠れていた汗が首を流れ、紙の端へ落ちそうになる。いのりはタオルで拭き、本を両腕で抱え直した。耳を出したことで、ようやく仕事の方を丁寧にできた。

返却ポストの確認へ行くと、ガラス越しに一人が本を入れ、会釈して去った。警備員は鍵の時刻を記録している。いのりの耳について、館内に新しい出来事は起きなかった。

最後の一冊を棚へ戻す。両手が空いているので、背表紙をまっすぐ揃えられた。

退勤時、外はまだ蒸し暑かった。いのりは輪ゴムを外さず、自転車に乗った。

耳の後ろを通る夜風は、髪の中に閉じ込めていた風より少し速かった。