肉球印の返書
犬を亡くしてから、老女は毎朝、空の散歩紐を持って玄関へ立った。
十七年、同じ時刻に川まで歩いた。
最期の日だけは、雨を理由に散歩を断った。
犬は夜に息を止めた。
動物病院から返された診察券の裏に、小さく書かれていた。
「首輪の名札を切手代わりに貼れば、その動物が最後に待っていた場所へ手紙が届きます」
老女は封筒へ名札を貼り、犬へ書いた。
「最後の散歩へ行かなくて、ごめん。
私は親切な飼い主でしたか」
玄関の郵便受けへ入れる。
翌朝、封筒は泥だらけで戻った。
中には、太い鉛筆で書いたような字。
「親切は知らない。
玄関は、あなたの匂いが戻る場所だった」
老女は何度も読んだ。
犬が待っていたのは散歩ではなく、自分だったのかもしれない。
それでも、最後に断った後悔は消えない。
二通目。
「雨でも行きたかった?」
返事。
「濡れるのは嫌い。
あなたが床を拭くのは好き」
思わず笑った。
犬は雨の日、わざと部屋を走り、老女を困らせた。
三通目には、最近のことを書いた。
「隣の家の犬が、毎朝よく吠えます。
飼い主の青年は仕事で留守が多い。
私は気になるけれど、あなたの代わりを飼うつもりはありません」
返事は一行。
「犬は代わりを頼まない。
散歩は頼むかも」
翌日、隣の青年へ声をかけた。
夜勤が増え、朝の散歩へ行けない日があるという。
老女は週二日だけ引き受けた。
隣の犬は、亡くなった犬とまるで違った。
引っぱる。水たまりへ入る。人へ吠える。
老女は何度も腹を立てた。
それでも川まで歩くと、空の紐を握るより腕が痛み、息が上がり、今いる犬の名前を呼ぶ必要があった。
最後の手紙を書く。
「もう毎朝、あなたを待たなくてもいい?」
返事は来なかった。
名札が封筒から剥がれ、文字のない金属片として郵便受けへ落ちている。
老女はそれを散歩紐へ戻さず、写真の前へ置いた。
翌朝、隣の犬が玄関を前足で叩いた。
老女が遅いので迎えに来たらしい。
「今行く」
声に出すと、家の中ではなく外で待つ足音がした。
犬への手紙は、忘れる許可をもらうためのものではなかった。
自分を待っている匂いが、過去の玄関だけでなく、今日の道にもあると気づくまでの往復だった。