花嫁のいない試着室
花嫁が来ない試着室で、玲泉は自分の婚約指輪を眺めていた。
友人の柚葉は、最終フィッティングに三十分遅れていた。店員は笑顔を崩さず、白いドレスの裾を整え続けている。
玲泉も三か月後に結婚する予定だった。式場は押さえ、両家の顔合わせも終え、婚姻届には相手の署名がある。あとは自分の欄を書いて提出するだけだ。
スマートフォンが鳴った。柚葉からだった。
『ごめん、今日行けない。彼と話してる』
「何かあった?」
『結婚、やめるかもしれない』
試着室の白いカーテンが、空調の風で揺れた。
玲泉は「落ち着いて」「今さら」と言いかけた。代わりに、「話せてるなら、待ってる」と答えた。
電話を切ると、婚約者の匡臣からメッセージが届いた。
〈婚姻届、式より先に出そう。来週の大安でいいよね〉
いいよね、という言葉に悪意はない。匡臣は優しく、仕事も安定し、玲泉の家族を大切にする。結婚すれば穏やかに暮らせるだろう。
ただ、玲泉が地方支社への異動を希望したいと話した夜、彼は笑って言った。
「結婚するんだから、もう冒険しなくていいよ」
その一言を、玲泉は半年かけて飲み込もうとしていた。
柚葉のドレスは、誰も着ていないのに美しかった。予定は人がいなくても完成した形で待っている。そこへ身体を入れれば、あとは裾を踏まないよう歩くだけだ。
玲泉は指輪を外した。店員が目をそらした。
匡臣へ電話をかける。
「来週、出さない」
『日が悪い?』
「婚姻届を出さない。結婚も止めたい」
言葉にした瞬間、キャンセル料、両親の顔、柚葉への疑いまで頭に浮かんだ。友人が迷ったから影響されたのだと、きっと誰かに言われる。
それでも玲泉は続けた。
「異動を諦めたくないからじゃない。諦める私を当然だと思う人と、予定を進めたくない」
長い沈黙のあと、匡臣は「分かった」とは言わなかった。玲泉も理解を求めなかった。
試着室の鏡の前に、指輪を外した跡だけが映る。
柚葉から〈今から行く〉と連絡が来た。
玲泉は〈待ってる〉と返し、白いドレスをカバーへ戻してもらった。誰が着るかは、まだ決まっていなかった。