花嫁修業の包丁

丹羽依吹は、母が研いだ出刃包丁を新聞紙で包んだ。

母は「嫁入り道具だから」と、依吹が二十歳の誕生日に包丁一式を買った。切れ味を確かめる夕食では、魚の下ろし方、出汁の取り方、夫の帰宅時間に合わせる段取りまで教えられた。

今夜、依吹はその包丁を実家へ返しに来た。

「せっかく使えるようになったのに」

母は煮魚の皿を食卓へ置いた。

「仕事場では別の包丁を使うから」

依吹は来月、友人と小さなケータリング会社を始める。母に料理を習ったのは本当だ。けれど母が想定した届け先は、ずっと架空の夫の食卓だった。

「会社なんて危ないことしないで、料理が得意なら家庭で生かせばいいでしょう」

「誰か一人の帰宅を待つためだけに覚えたんじゃない」

「女の幸せを馬鹿にしてるの?」

「お母さんの幸せを否定してない。私の進路に同じ型を使わないでって言ってる」

母は、依吹が昔使っていた花柄のエプロンを持ってきた。胸元に〈およめさん〉と刺繍されている。小学校の家庭科で将来の夢を書かされたとき、母が下書きした文字だった。

依吹はエプロンも包丁の箱へ入れた。

「これは置いていく」

「思い出まで返すの」

「思い出は覚えてる。役目だけ返す」

母は煮魚の骨を丁寧に外した。いつもなら依吹の皿にも手を伸ばすが、今夜は自分の分だけにした。

「会社では何人分作るの」

「最初は一日三十食くらい」

「そんなに、魚を下ろせる?」

「必要なら仕入れ方を変える。全部一人でやらない」

母は少し驚いた顔をした。料理は一人で家族全員分を完璧に作るものだと、母自身も信じてきたのだろう。

食後、依吹は箱を母の台所へ置いた。

「料理の相談をすることはある。でも、結婚する時期や働き方と一緒には聞かないで」

母は返事の代わりに、会社で使えそうな保存容器のカタログを一冊出した。

依吹は受け取る前に尋ねた。

「これは勧めるだけ? 決めるのは私?」

母はしばらく考え、「そう」と言った。

依吹はカタログだけを持ち帰った。包丁も、花柄の役目も、母の台所に残した。