蜂蜜色の午後

翻訳家の礼文は、言葉が出てこなくなると喫茶「蜜灯」へ行く。

その日も、ある一文で三時間止まっていた。主人公が故郷の台所を思い出す場面だ。原文の単語は単に「warm」だったが、温かい、暖かい、ぬくい、穏やかな、親密な――どれを置いても、何かがこぼれた。

窓際の席へ資料を広げ、蜂蜜入りのミルクティーを頼む。店員の茅花は、小さなガラス瓶を添えた。

蜂蜜は午後の光を閉じ込めたような色をしている。礼文がスプーンですくうと、細い糸を引いて紅茶へ落ちた。

隣席では、幼い兄妹が一皿のホットケーキを分けていた。兄が大きいほうを取ると、妹は黙って見つめる。兄は少し考え、苺だけ妹の皿へ移した。

母親が「優しいね」と言うと、兄は照れて、クリームを口いっぱいにつけた。

礼文はノートへ「優しい」と書き、線を引いた。それも違う。故郷の台所は、誰かの性格ではなく、鍋の蓋につく水滴や、乾ききらない布巾や、夕飯を待つ間の匂いだった。

ミルクティーを飲む。蜂蜜の甘さは舌へ直接来ず、紅茶の渋みの後ろからゆっくり現れた。

礼文は訳文を一度消し、こう書いた。

〈台所には、帰りの遅い彼の分まで、湯気が残っていた。〉

正解かどうかは分からない。けれど、今までより原文の近くに立てた気がした。

帰り際、茅花が空のカップを下げながら、「甘さ、足りましたか」と訊いた。

「あとから来ました」

店を出ると、冬の日は傾き、通り全体が蜂蜜色に染まっていた。礼文は手袋をせず歩いた。指先は冷えたが、喉の奥には、名づけきれない温度が残っていた。

仕事場へ戻ると、礼文は訳した一文を声に出して読んだ。湯気という言葉が部屋の冷たい空気に浮かび、すぐに見えなくなる。それでも消えたとは感じなかった。彼は次の行へカーソルを進め、机の端に置いた蜂蜜の小瓶を、照明の近くへ寄せた。

小瓶の底では、残った甘さが琥珀の光を抱き、ゆっくりと動いた。