蝶になる袖

 薄緑のドレスには四本の袖飾りがある。飾りを一本ちぎり、誰かの手を握れば、その人を安全な場所へ運べる。ただし運ばれた人は、着る者を忘れる。

 魔法図書塔が燃えた夜、モルガはそのドレスを着ていた。

 最上階には、弟トリスと三人の同僚が取り残されている。階段は崩れ、窓の外では火の精が渦を巻いていた。

 一本目をちぎり、司書長の手を握る。布は蝶の群れになり、彼を地上へ運んだ。遠くから「知らない女が助けてくれた」と叫ぶ声が聞こえる。

 二本目で、脚を挫いた同僚を送る。彼女は地上へ着くなり、救助隊へ『緑の服の魔術師がいる』と伝えた。毎朝同じ机で茶を飲んだモルガの名は、もう口から出なかった。

 三本目で、煙を吸った新人を送る。採用の日に緊張で本を逆さに持っていた青年は、蝶に運ばれながら礼を叫び、着地した瞬間には誰へ礼を言ったのか忘れた。

 火は羊皮紙の脂を吸って青く燃え、棚から棚へ走った。四本の飾りは救える人数を最初から決めている。モルガは人数を数え間違えなかった。ただ、自分も一人に含めることをやめただけだった。

 残った飾りは一本。

「姉さんは?」

 弟が尋ねた。炎は書架を越え、天井の梁が軋んでいる。

「私は別の道を探す」

「嘘だ」

 トリスは幼いころから、モルガの嘘だけは見抜いた。両親を亡くしてから十年、朝食を作り、学費を払い、喧嘩のたびに「姉じゃなくて母親みたい」と言われた。それでも、彼が初任給で贈ってくれたこのドレスを、一度も手放せなかった。

「忘れたくない」

 弟は首を振る。

「覚えていたら、手を離せないでしょう」

 モルガは最後の飾りをちぎった。

 緑の蝶が袖からあふれる。トリスの指が彼女の手からほどけていく。

「姉さん!」

 その呼び声は、蝶に包まれた瞬間、「あなた」に変わった。

 弟は地上へ運ばれ、群衆の中に降り立つ。燃える最上階を見上げ、不思議そうに眉を寄せた。

「まだ誰かいるのか?」

 塔の窓辺で、モルガは空になった袖を振った。

 弟は知らない女の別れに気づかず、救助隊へ道を譲った。