血を飲めない吸血鬼の紅玉ケーキ
夜だけ開く菓子店〈月釜〉へ、吸血鬼ノクティスは壁に手をつきながら入ってきた。
「腹を満たす菓子はあるか。血を使わずに」
百年生きた吸血鬼なのに、彼は血を見ると吐き気がする。獲物を襲えず、眷属からは一族の恥と呼ばれた。普通の食事では力にならず、頬は紙のように白い。明日の夜までに飢えを満たせなければ、眠りから起きられなくなるという。
外套の内側には、狩りへ出たふりをするための空の革袋が下がっていた。毎夜、誰も傷つけずに戻るたび嘲笑され、それでも飢えを理由に牙を立てることはできなかった。今では階段を上る力もなく、店まで来るのに三度夜道へ膝をついたという。扉の前でも一度引き返しかけた。菓子で飢えが満ちるなど信じられない。それでも、牙を使わずに迎える次の夜を、最後に一度だけ望んだ。
店主ベラントは驚かず、掌ほどの赤いケーキを一つ切り出した。表面には透き通った石榴の蜜、内側には黒いカカオ生地が重なっている。
「紅玉ケーキです。血は一滴も入っていません。石榴と鉄麦で、夜の力だけを焼きました」
ノクティスは銀のフォークを刺した。赤い蜜が流れ、反射的に顔を背ける。
「色まで似せる必要があったか」
「嫌いなものに似ていても、別の味を選べると証明できます」
彼はしばらく睨んだ末、小さな一口を食べた。
酸味が舌を起こし、カカオの苦さのあとから濃い甘みが広がった。吐き気は来ない。空洞だった身体へ、温かな夜気が満ちていく。二口目で指の震えが止まり、三口目には灰色だった瞳が深い紅へ戻った。
最後の一欠片を食べ終えると、曲がっていた背筋が伸びた。
「飢えが、消えた」
「朝までは十分です」
「朝だけでは困る」
ノクティスは古い金貨を五枚、音を立てて積んだ。
「毎晩一台焼け。眷属には恥だと言わせておく。私は今夜から、嫌いなものを口にせず生き延びる」
外套を翻し、月明かりの中へ堂々と歩き出す。もう壁に手はついていなかった。
ベラントが空の皿に残った赤い蜜を拭うと、ちりん、と夜のドアベルが鳴った。