表紙を上に
「閉店前に、一冊だけ表紙を上にして」
薬師寺郁が店長から頼まれたのは、文庫本の並べ方だった。
店長は病室から書店の売場図を送ってきた。入口から三列目、文庫の新刊台、左奥。そこにある短編集を一冊、平積みのいちばん上へ置く。頼みはそれだけだった。
郁はその本を知っていた。派手な帯も映像化もなく、発売から二週間で一冊しか売れていない。店長は毎朝、場所を少しずつ変えていた。
一冊売れた日は、レジの販売履歴を印刷して休憩室へ持ってきた。購入時刻は十四時三十二分。誰が買ったのかは分からないのに、店長は「昼休みをずらした人だな」と満足そうに言った。郁はその紙を冗談だと思って捨て、あとで少し怒られた。
「売上のこと、まだ気にするんですか」
電話口で聞くと、店長は「棚が乱れてるほうが気になる」と答えた。翌朝を迎えられるか分からない人の声とは思えなかった。
閉店十分前、郁は新刊台へ向かった。頼まれた本は、売れ筋の恋愛小説の下に半分隠れていた。誰かが戻す場所を間違えたらしい。
郁は本を抜き、表紙を布で拭いた。淡い灰色の背景に、小さな台所の絵がある。裏表紙には指の跡がついていた。店長が何度も持ち上げた跡かもしれないが、そこまできれいにする必要はない気がして、一度だけ軽く拭いた。
一冊だけ上へ置けば作業は終わる。けれど隣の本が高く積まれ、表紙が見えにくい。郁は周囲の山を一冊ずつずらした。平台の端に揃え、帯の高さも合わせる。
閉店を知らせる音楽が流れ始めた。アルバイトが入口の看板を中へ入れる。店長なら、音楽が終わるまで売場を直し続けていた。
郁は頼まれた本を中央へ置いた。正面から見ると、照明が表紙の文字を白く反射した。角度を少し変える。台所の絵が見えるようになった。
スマートフォンを取り出し、写真を送ろうとしてやめた。既読を待つことになるからだ。
代わりに、平台の下から小さな「スタッフおすすめ」の札を一枚出した。何も書かず、本の右上へ添える。店長の頼みにはなかったが、邪魔にはならない。
郁は最後に本の下辺を平台の縁と平行にそろえた。
両手を離すと、灰色の表紙が売場のいちばん上に残った。