袖のほつれ
国際ファッションショーの舞台裏で、仮縫い担当の女性が一着の袖を直していた。室生章乃。髪に白い糸くずを付け、首から「外注」の札を下げている。
若いブランド責任者は、その手を払いのけた。
責任者は会見のたびに、ANOの古いデザイン画を自分の家系の資料だと紹介していた。室生は否定せず、衣装の裾に縫い込まれた青い糸を見つめた。それはANOが試作品にだけ残す署名で、私は服飾学校の資料で一度見たことがある。ところが責任者は青い糸を「見栄えの悪い縫い残し」と呼び、全部抜くよう命じた。室生の目が初めて鋭くなった。
彼女は抜かれた青い糸を一本ずつ紙へ包んだ。私は理由を尋ねたが、「名前は大声で名乗るより、仕事の中に残すもの」とだけ答えた。
「勝手に触らないで。海外向けの一点物です」
「肩線が半寸ずれています。このまま歩けば袖が裂けます」
「昔の洋裁店の感覚で口を出さないでください」
責任者は彼女の針箱を閉じ、裏口へ置いた。私はモデルとして衣装を着た瞬間、右肩だけが引かれるのを感じた。伝えると、「素人の不安を真に受けるな」とスタッフが笑った。
本番直前、室生は落ちた糸を一本拾った。
「この絹は水に弱い。スチームを当てすぎています」
責任者は演出を優先し、強い蒸気をかけさせた。袖の縫い目に白い筋が浮いたが、暗い舞台なら見えないと言い切った。
客席には海外百貨店の買付担当、投資会社、ファッション誌の編集長が並んでいた。責任者は新ブランドの理念を語り、最後に『伝説のデザイナー・ANOの精神を継承した』と宣言した。
照明が落ちる直前、スポンサー企業の会長が舞台裏へ来た。彼は外注札の女性を見つけ、両手で握手する。
「室生先生、二十年ぶりの復帰作を拝見でき光栄です」
責任者が固まった。会長は報道陣へ向き直る。
「ANOは室生章乃先生の登録商標です。今回の提携と商標使用許可は、先生ご本人の最終承認が条件でした」
室生は裂けかけた袖を持ち上げ、糸切り鋏を開いた。
「まず、私の名を縫いつける資格のない契約を切りましょう」