袖口の二本線
椎橋啓太は、面接に着ていくシャツの袖を、沙都子と直していた。
沙都子は亡くなった母の友人で、啓太が十歳のときから同じ家で暮らした。養子縁組はしなかった。母の保険金を預かる親族も別にいた。それでも朝食を作り、授業参観へ来て、就職祝いに安い腕時計をくれたのは沙都子だった。
啓太は先月会社を辞めた。沙都子には「転職する」とだけ伝えている。
シャツの右袖は、酔って転んだとき金網へ引っかけた。沙都子は理由を聞かず、まず汚れを石鹸で落とした。啓太は濡れた布をドライヤーで乾かし、二人で裂け目の端を指先へ揃えた。裂け目を内側から当て布で塞ぎ、二本の線で縫う。
「白い糸じゃ目立つ」と啓太が言う。
「紺しかない」
「コンビニで買ってくる」
「面接は今日でしょ」
沙都子は老眼鏡をずらし、細い針へ糸を通した。啓太が布を張り、沙都子が縫う。針目は曲がった。
「母さんなら、もっとうまかった」
「知ってる。私は家庭科二だった」
「それでよく俺のゼッケン縫ってたな」
「安全ピンよりまし」
二人は少し笑った。
袖口を折り返せば縫い目は隠れる。ただし腕を上げると、紺の二本線が見える。
「落ちたらシャツのせいにするなよ」
「受かったら?」
「糸代を返して」
啓太は面接へ向かい、夕方戻った。結果は一週間後だという。沙都子は何も聞かず、鍋に二人分のうどんを入れた。
「帰ってくると思った?」
「シャツを脱がないと洗えないから」
啓太は袖を見た。紺の線はほどけていない。面接官に退職理由を聞かれ、うまく答えられなかったことも、貯金が来月で尽きることもまだ言えなかった。
食後、啓太はシャツを洗濯ネットへ入れた。自分の部屋だった和室は物置になっている。布団を敷く場所はない。
それでも洗面所の籠には、啓太の着替えを入れる空きがあった。彼は鞄から下着と靴下を一組出し、そこへ置いた。
「明日も着るの?」
「結果が出るまで、ここで皺を伸ばす」
沙都子はアイロン台を出し、啓太は水を入れた。紺の二本線だけは、折り目の内側に隠さず残した。