見本ではない薔薇
綾瀬真白は、洋菓子店「花冠」の硝子棚に飾られた砂糖の薔薇を見つめていた。
親指ほどの白い花で、薄い花弁が何枚も重なっている。値札はなく、隣に「飾り見本」と書かれた札があった。
真白は二年前、製菓学校を途中で辞めた。実習で作った花を講師に「均一すぎて生きていない」と言われ、その言葉だけが残った。今は事務の仕事をしている。安定していて、困ってはいない。それでも夜間コースの募集広告を見るたび、画面を閉じていた。指先だけは、花弁を薄くのばす棒の角度をまだ覚えている。忘れたことにしている間も、指だけは続きを待っていた。
「これは売り物ではありませんか」
店主は棚を開け、薔薇の台座を確かめた。
「見本として作りましたが、材料は商品と同じです」
店主は古い札から「見本」の二文字に細い線を引いた。その下へ価格を書き、レジに商品コードを手入力する。花は綿を敷いた小箱へ入り、透明な蓋を掛けられた。白い花弁の端に一か所だけ、小さな欠けがある。
「欠けていますね」
「棚に置いていた時間の分です」
値引きはされたが、作り直されなかった。
真白は、辞めた二年を欠けとして隠そうとしていたのだと気づいた。再入学すれば年下と同じ教室になる。履歴書には中退が残る。最初からやり直せないなら、戻る意味がないと思っていた。
けれど目の前の薔薇は、見本だった時間を消さずに商品になった。役割が変わっても、材料まで別物になるわけではない。
会計後、店主は「取扱注意」の判を箱の底へ押した。花を隠さないため、蓋には何も貼らない。
真白は店の外で夜間コースの申込ページを開いた。最終学歴の欄へ、製菓学校中退と入力する。志望理由には、きれいな言葉を探さず、「もう一度、砂糖細工を学びたい」と書いた。
送信すると受付番号が表示された。小箱の薔薇は、商店街の蛍光灯を受けて白く浮かぶ。
家へ帰ったら食べるつもりだったが、真白はしばらく飾ることにした。見本ではない。次に手を動かす日まで残しておく、最初の商品だった。