誰にも気づかれない奇跡
丹羽諒一は、定年最後の運転を前に願いの店へ寄った。
台風が近づき、鉄道は止まり、道路は冠水し始めている。それでも最終バスには、病院帰りの老人や、夜勤明けの店員や、塾帰りの子どもが乗る。
「今夜の乗客を、全員無事に家へ帰したい」
店主は透明な切符を一枚くれた。
「誰かが奇跡に気づいたら、そこで終わりです」
諒一は切符を胸ポケットへ入れた。
午後十一時、最終便は発車した。
不思議なほど道が空いていた。倒木はバスが通った直後に道を塞ぎ、冠水した交差点では水が左右へ引いた。信号は近づくたび青になった。
だが乗客は誰も気づかない。
老人は居眠りし、店員は携帯を見ている。子どもは曇った窓へ指で絵を描いていた。
三つ目の停留所で、子どもが運転席へ来た。
「運転手さん」
「座っていてください」
「このバスの周りだけ、雨が落ちてこないよ」
諒一の胸ポケットで、透明な切符にひびが入った。
外を見ると、確かに雨粒が車体の手前で曲がっている。
「そんなわけないだろう」
「でも」
「窓に水がついてるから、そう見えるんだ」
子どもはじっと外を見た。
切符のひびが広がる。
「そっか」と子どもは言った。「反射か」
ひびが止まった。
諒一は息を吐いた。
その後も、危ない場面は何度もあった。飛んできた看板が直前で向きを変え、崩れた土砂がバスの後ろで止まった。
乗客は順番に降りていった。杖の老人には歩道へ寄せ、眠った店員には停留所名を二度呼び、子どもには水たまりのない場所で扉を開けた。
「ありがとう」と言う者はいたが、奇跡への礼ではない。いつもの、運転手への礼だった。
終点で最後の老人を降ろすと、車内は空になった。
営業所へ戻る途中、雨は急に激しくなった。信号は赤になり、道路には水があふれた。
胸ポケットの切符は、普通の紙に変わっていた。
諒一は車庫へバスを入れ、エンジンを切った。
長いあいだ握ってきたハンドルを、最後に一度なでる。
誰も奇跡に気づかなかった。
だが、誰にも気づかれないまま人を家へ帰すことを、諒一は四十二年間、奇跡とは呼ばずに続けてきた。
透明だった切符を、彼は退職証と一緒にしまった。