誰にも貸さない日傘

月岡比奈子の天気アプリには、三つの都市が登録されていた。自宅、職場、実家。雨だけでなく、気温差、紫外線、花粉、強風まで通知を受ける。備えていれば失敗しない。そう思うほど、鞄は重くなった。

予定も同じだった。誘われれば空け、頼まれれば引き受ける。誰かが困る可能性に備え、自分の休日はいつも予備日になった。

金継ぎ教室も三度予約を延ばしている。一度目は妹の引っ越し、二度目は同僚の発熱、三度目は友人の買い物だった。どれも助けてよかったと思う。それでも、欠けた器を直してみたいという自分の希望だけが、毎回いちばん簡単に延期された。

土曜の朝、画面の天気キャラクターが、快晴の太陽ではなく一本の黒い傘を差していた。

〈降水確率ゼロの日に、何を守りますか〉

再起動しても消えない。次に短い指示が出た。

〈傘を一本持って出てください。今日は誰にも貸さないで〉

外は雲一つない。比奈子は玄関の奥から細い日傘を取り出した。使う予定はないが、課題だと思えば持てた。誰にも貸さないという一文が、意地悪な規則のようで気にかかる。比奈子は物も時間も、必要とされた瞬間に差し出すのが親切だと思ってきた。今日は傘一本だけ、その反射を止めることにした。

駅へ向かう途中、同僚から電話が来た。急に人が足りなくなったから、午後だけ出られないかという。比奈子が断ったことのない相手だった。今日は十四時から、ずっと気になっていた金継ぎの体験教室がある。でも予約を話せば、趣味なら別日にできると思われそうだった。

「予定、ある?」

日傘の持ち手が掌に収まっている。貸さないと決めたのは傘だけのはずなのに、今日の時間も同じ形をしている気がした。

「あります。今日は行けません」

相手が黙る。比奈子は埋め合わせの言葉を急いで足さなかった。しばらくして「了解、ほかを当たる」と電話が切れた。

空はまだ完全な青だった。比奈子は日傘を開く。道路に小さな丸い影ができ、その中だけ、行き先が自分のものになった。

天気アプリの通知をすべて閉じ、比奈子は教室の住所へ向かう電車に乗った。