赤い傘を返す夜
最終電車の床に、赤い傘が一本転がっていた。
穂積玲央が拾うと、向かいの女が振り返る。二十五年前の母だった。玲央を産んだ翌年に家を出た母。写真より若く、まだ彼を知らない顔をしている。
「傘、忘れてますよ」
そう声をかけると、車内時計が五分前へ戻った。
目的は一つ。母が家を出た理由を聞くこと。終点までに答えを得られれば、二十五年の空白に名前をつけられる。
一周目、玲央は息子だと名乗った。女は怯えて別の車両へ逃げた。
二周目、父の名前を出した。女は赤い傘を奪い、「あの人から逃げるの」とだけ言った。
三周目、録音を始めた。女は玲央のスマートフォンに映る自分の目を見て、静かに尋ねた。
「私、子供を置いていくの?」
玲央は答えられなかった。母を責めるために来たのに、未来を知らない彼女へ罪を渡そうとしている。
電車の窓に文字が浮かんだ。
〈質問への回答が確定すると、回答に反する未来は削除されます〉
もし母が「父から逃げた」と答えれば、彼女は幼い玲央を連れていく未来へ変わるかもしれない。もし「子供が嫌だった」と答えれば、玲央が生まれない選択をするかもしれない。答えは過去の説明ではなく、未来への命令になる。
「傘、忘れてますよ」
四度目、玲央はそれだけ言った。
女は傘を受け取らず、彼の顔をじっと見た。
「あなた、私に何を聞きたいの?」
録音画面には残り一分。父は酒に溺れ、玲央を殴った。母が連れていってくれなかった恨みは、いまも消えない。理由を知れば許せると思った。許せなくても、憎む形くらい整うと思った。
玲央は録音データを削除し、スマートフォンを座席の金具へ叩きつけた。画面が割れ、二十五年間集めた母の写真と住所も消えた。
「何も聞かない」
赤い傘を女の膝へ置く。
終点で扉が開いた。女は降りる直前、傘を差し出しかけたが、玲央は手を背中へ回した。
「それは、あなたのです」
女は雨のホームへ消えた。列車は戻らなかった。
現在の駅で、玲央は割れたスマートフォンを開いた。母の連絡先は復元できない。父もすでに死んでいる。理由を知る道は、自分で壊した。
改札の外は雨だった。玲央は傘を買わず、母がどちらへ歩いたのか分からない夜を、そのまま濡れて帰った。