転送届の宛先

真壁七緒の部屋は、あと三日で空になる。

建物の取り壊しが決まり、引っ越し先を探していた。畳んだ段ボールが、壁際に十枚並んでいる。勤務先は完全在宅なので、街を選ぶ理由は家賃くらいしかない。

本当は、橘紳太郎のいる松本へ行きたかった。朝のオンライン会議を終えたあと、彼の店で昼のパンを買い、閉店の札を裏返す。そんな暮らしを何度も想像しては、不動産サイトの履歴だけ消していた。

彼は半年前、貯金を使い切って小さなパン屋を開いた。東京に来てとは言えない。店を選ぶか自分を選ぶか、そんな問いを彼の夢に重ねたくなかった。それだけが、好きと言えない理由だった。

郵便局の窓口が閉まるまで十二分。七緒は転送届の新住所欄を空白にしたまま、紳太郎と電話していた。

「次のパン、どこに送ればいい?」

「送らなくていいよ」

毎週月曜、売れ残ったパンを冷凍便で送ってくれる。七緒の冷凍庫には、彼の店の匂いが途切れず残っていた。

「住所決まってないの?」

「ホテルにでも住む」

「もう送らないでって、パン飽きた?」

「違う」

「じゃあ教えて」

係員が、転送届は今日中でなくても大丈夫ですと言った。だが七緒にとって、今日を逃せばまた決められない気がした。

「紳太郎は、店を離れられないでしょ」

「離れるつもりないよ」

「ほら」

「でも、七緒に東京にいてくれとも言ってない」

逃げ道のない返事だった。

「近くに来てって言ったら、店のためみたいで嫌だった」

「店のためでもいいよ。俺のためじゃなく、七緒が住みたいなら」

窓口終了まで五分。七緒はスマートフォンに保存していた物件情報を開いた。紳太郎の店から徒歩七分、二階、東向き。オンライン内見と入居審査は済み、契約確定のボタンだけ押せずにいた。

「送らなくていい」

二度目に言うと、紳太郎の声が沈んだ。

「分かった」

「そうじゃなくて。送らなくていい。私が取りに行くから」

七緒は物件の契約を確定した。

転送届の新住所欄へ、表示された松本市の住所を書き写す。窓口のシャッターが下り始める直前、七緒は用紙を差し出した。