返事のないただいま

返事のない「ただいま」

郁鷹は耳が遠くなってから、娘の美都葉が帰る時刻には台所に立つようになった。居間で本を読んでいると、玄関の音も「ただいま」も聞き逃す。包丁を置き、床から伝わる振動を待つほうが確かだった。

美都葉は図書館勤めで、火曜だけ閉館が遅い。郁鷹は南瓜を煮ながら、何度も壁の時計を見た。鍋から甘い湯気が上がり、醤油の香りが換気扇に吸われる。竹串はとうに通ったが、火を止めれば台所が静かになりすぎるので、ごく弱く保った。

九時すぎ、廊下の床がかすかに揺れた。郁鷹は振り向かなかった。美都葉は靴を脱ぎ、いつもの声で「ただいま」と言ったはずだった。それから台所へ来て、父の肩を軽く叩く。

郁鷹はそこで初めて気づいた顔をした。

「帰ったか」

「三回言った」

美都葉は指を三本立て、笑う。郁鷹も「それはすまん」と声を大きくした。大きくする相手が逆だと、また笑われた。

南瓜は煮崩れ、箸で持つとほろりと割れた。美都葉はそれを御飯へ載せ、「このくらいが好き」と食べる。郁鷹は本当かどうか訊かなかった。

食卓の会話は、ときどき聞き返し、ときどき手振りになった。だが湯気の温度や、煮物の甘い匂いには聞き違いがない。美都葉が帰る前から満ちていた香りへ、外の冷気が少し混じる。それが郁鷹にとって、いちばん確かな「ただいま」だった。

美都葉は食後、父の補聴器の電池を替えた。小さすぎる銀色の粒を、郁鷹は黙って見守る。新しい電池を入れると、冷蔵庫の音まで急に近くなった。「聞こえすぎる」と眉をしかめ、二人で笑う。台所の蛇口から落ちる一滴も、外を通る自転車も聞こえた。けれど美都葉がもう一度、小さな声で「ただいま」と言うと、郁鷹は今度は聞き返さず、「おかえり」と答えた。南瓜の余韻が、まだ舌に甘かった。

補聴器を外す夜になれば、家はまた遠くなる。それでも隣室に人がいる床の温みだけは、耳を使わずに分かった。