退職希望、却下

百瀬川絃は、二百六十三年間、橋のひびを見ていた。

都市の橋梁はAIが監視していたが、最終判断には人間の署名が必要だった。絃は崩落事故を一度も出さない伝説の検査員で、その実績のせいで退職願を出すたび却下された。

〈代替可能な技能継承者が存在しません〉

退職したかったのは、仕事が嫌いだからではない。娘と大陸を歩く約束を、検査予定のたび延期し、とうとう娘は一人で出発した。帰りを待つ必要はない不死者同士なのに、二人は百二十年会っていなかった。

絃は百年前から後継者を育てようとした。だが新人が小さな誤差を出すと、管理AIは即座に配置転換した。失敗しない者だけを残すため、誰も経験を積めなかった。

「あなたが確認すれば安全です」と上司は言った。

「私がいる限り、誰も安全を覚えないんです」

絃は最後の手段に出た。定期検査で、問題のない橋脚へ赤い印を一つ残した。報告書には何も書かなかった。規則違反ではあるが危険はない。

新人の一人が印を見つけ、三日かけて理由を考えた。コンクリート、潮位、振動、過去の補修記録。答えが出ず、ついに絃へ尋ねた。

「分からないなら、分からないと報告しろ。それが最初の仕事だ」

新人は管理AIへ〈判断不能〉を提出した。システムは低評価を付けたが、絃は署名を拒んだ。

「この人は、分かったふりをしなかった。私より安全です」

騒ぎは監査へ発展した。絃の赤い印も発覚し、処分審査が開かれた。彼は免職を期待した。

判定は減給百年と、教育部門への異動だった。

「退職ではないんですか」

「技能継承に必要です」

絃は笑い出した。完全には逃げられなかったが、橋を一人で背負う仕事からは降りられた。

十年後、彼が育てた検査員は百人を超えた。判断不能を恥じず、互いの報告を疑う者たちだった。管理AIはついに〈代替可能〉と認定した。

退職初日、絃は木で鳥小屋を作った。屋根は少し傾き、入口は丸く切れなかった。

雨が漏れた。絃は直さず、軒下で眺めた。

二百六十三年ぶりに、失敗が誰の命も奪わない午後だった。