金魚のいない水槽
生物部の展示には、金魚が一匹もいなかった。
教室の中央に大きな水槽があり、水草、石、砂利、泡の出る装置までそろっている。ところが前日の夜、顧問が「生体を祭りの見世物にするのはやめよう」と言い出した。
一年かけて育てた金魚は、準備室の静かな水槽へ移された。
当日、客は空の水槽を見て首をかしげた。
「何がいるんですか」
「何もいません」
案内係の水尾初音が答えるたび、相手は困った顔をした。
展示タイトルは『見えない生き物を観察する』。水を汲んで顕微鏡で微生物を見る企画だったが、派手な金魚のポスターを見て来た子どもたちはがっかりした。
午後、一人の男の子が水槽の前から動かなくなった。
「金魚、死んだの?」
「元気だよ。奥で休んでる」
「じゃあ、何でここ空っぽ?」
「静かな場所が好きだから」
「僕も」
男の子は水槽へ顔を近づけた。
泡が上がる。水草が揺れる。石の陰には何もいない。
「いないと、つまらない?」と初音が訊く。
「いると思って見ると、いる気がする」
男の子は指でガラスをなぞった。
「ここに一匹。あっちに二匹」
「見えるの?」
「見えないけど、逃げた」
初音も隣へしゃがんだ。
空の水槽を、二人で長く眺めた。魚がいないから、水の流れや、水草の先につく小さな泡まで見えた。普段なら金魚ばかり追って、気づかなかったものだった。
男の子が帰ったあと、初音はポスターから金魚の絵を外した。
代わりに白い紙を貼り、『何匹見えましたか』と書いた。
客は足を止めるようになった。
零匹。三匹。百匹。透明な魚が一匹。昔飼っていた赤いのが一匹。答えは付箋に書かれ、水槽の周りへ増えていった。
閉場後、初音は準備室の金魚へ餌をやった。
赤い尾が水を切る。いつもの光景なのに、昼間より少しだけ輪郭が濃く見えた。
「展示、成功だった?」と顧問が訊く。
「金魚には」
「客には?」
「見えた人には」
最後に貼られた付箋には、『いないから、ずっと待てた』とあった。
初音はそれを剥がさず、空の水槽の正面へ残した。
文化祭で一番長く見つめられた生き物は、結局、一度もそこへ入らなかった。