銀色を一房残す
花立多聞は、住宅街で理髪店を営んでいる。
初めて来た若い女性は、鏡の前へ座るなり、右のこめかみを手で隠した。
「ここだけ白くなって」
黒い髪の中へ、銀色の房が細く混じっていた。
「染めた方がいいですよね」
声が小さかった。
多聞は櫛で髪をとかし、照明の角度を変えた。
「白髪ではなく、鏡が光を拾ってるだけです」
明らかな嘘だった。
女性も鏡越しに眉を上げた。
「家の鏡でも光ります」
「照明業界が統一したのでしょう」
多聞が真顔で言うと、女性は少し笑った。
仕事が忙しくなってから増えたという。
全部黒く染めることも、一房だけ色を入れることもできる。
多聞は選択肢を説明し、最後に言った。
「今日は切るだけでもいいです。光は残せます」
女性はしばらく鏡を見た。
「では、光を一房だけ」
多聞は銀色の部分を避け、髪を短く整えた。
耳の横へ残った房は、切る前よりはっきり見えた。
「目立ちますね」
「よく光ります」
「まだ言う」
女性は笑い、店を出た。
一か月後、また来た。
今度はこめかみを隠さず、
「光の手入れを」
と頼んだ。
二人だけの呼び方になった。
女性は毎回、仕事のことを少しだけ話した。
会議で言えなかったこと。帰宅後もメールを見てしまうこと。
多聞は励まさず、襟足の長さや前髪の向きだけを確認した。
嘘の名前をつけた銀色は、話したくないことまで訊かない目印になった。
冬、女性が小さな茶缶を持ってきた。
「光を残したお礼」
中には白い花の香りがする烏龍茶が入っていた。
閉店後、多聞は二人分を淹れた。
湯気が鏡を曇らせ、銀色の房が一瞬見えなくなる。
「本当は最初から、白髪だって分かってました」
女性が言う。
「私も、光ではないと知っていました」
「秘密になってない」
「二人が同じ名前で呼べば、十分です」
鏡の曇りが消えると、銀色がまた現れた。
店には茶の花の香りと、切った髪の乾いた匂いが残る。
隠すための嘘だった言葉は、いつしか隠さなくてよい部分を大切に残す、二人だけの呼び名になっていた。