閉店札の向こうで梟が笑う
古書店「青楼」の店主、鵯越汐音は、閉店札を出すのが苦手だった。
夜八時を過ぎても、棚を見ている客がいれば急かせない。店を閉めたあとも通販の注文を包み、古い本の埃を払い、気づけば日付が変わる。
好きで始めた店なのだから、疲れたと言ってはいけない気がしていた。
梟が屋根裏へ住みついたのは、冬の初めだった。
換気窓から入り、梁の上で眠る。野生動物なので触らず、専門家へ相談しながら見守ったが、夜になると必ず帳場の上へ降りてきた。
名は夜目。
最後の客が帰り、扉へ鍵をかけると、人間の言葉で喋る。
「今日も閉店が遅い」
「お客さまが読んでいたから」
「本は逃げぬ」
「客は逃げるかもしれない」
「疲れた店主からは、客も逃げる」
夜目は目を細めた。笑ったように見えた。
ある雨の晩、閉店間際に客が一人入った。
汐音は「ごゆっくり」と言ったが、胸の奥では、早く帰りたいと思っている。客は棚を一周し、何も買わずに出ていった。
自分の心の狭さが嫌になり、汐音はさらに一時間、棚の整理を始めた。
夜目が帳場へ降りる。
「罰か」
「何が」
「休みたいと思った罰として働いている」
汐音は手を止めた。
「店主がそんなことを思ったら駄目でしょう」
「閉店札は、客を追い払う札ではない」
夜目は翼を少し広げた。
「店主を夜へ返す札だ」
雨が屋根を叩く。
汐音は棚の途中へ栞を挟み、作業をやめた。店の照明を半分落とし、奥の小さな台所でシナモンティーを淹れる。
久しぶりに、売り物ではない本を一冊持ってきた。子どもの頃に好きだった冒険小説だ。
「読むのか」
「仕事じゃなく」
「それが本来の読み方だ」
「古書店主に厳しいね」
「梟は夜に厳しい」
汐音はストーブのそばで頁をめくった。
夜目は梁へ戻り、ときどき羽を整える。古い紙と木の棚、シナモンの甘い香りが店内へ重なった。
物語を三章読んだところで、眠気が来た。汐音はそこで本を閉じる。
翌日から、閉店時刻の十分前に小さな鐘を鳴らすことにした。
客は不満を言わず、「また来ます」と帰っていく。
最後の一人を見送ると、汐音は札を裏返した。
〈閉店〉の二文字が、以前より温かく見えた。
その夜、夜目が言った。
「よい札だ」
「読めるの?」
「梟は何でも見える」
帳場の奥で湯が沸き、雨上がりの風が本の匂いをゆっくり動かした。