降りる駅を知らせる光
和泉は終電へ乗ると、右耳の補聴器を外した。
一日じゅう会議の声を拾い続け、耳の奥が疲れていた。左耳にはつけたまま、それも音量を下げる。車内放送は薄くなり、空調の唸りと車輪の音は輪郭を失った。代わりに、床から伝わる振動がはっきりした。
ドアの上では、駅名を知らせる光が順番に点く。
緑、緑、次は橙。電車が減速すると吊り革が前へ傾き、ホームへ停まると戻る。ドアが開けば白い光が広がり、閉じれば窓に自分の顔が映る。
今日、同僚に「聞こえづらかったら何度でも言って」と言われた。親切だった。けれど何度も聞き返すたび、会議を止めているような気がして、帰りには言葉そのものが重くなっていた。
向かいの座席に、スニーカーを履いた女性が座っている。イヤホンをつけ、つま先で床を一定にたたいていた。音楽の拍子らしい。和泉には曲は聞こえない。ただ、床を通して、とん、とん、と振動が届く。
列車の揺れと、女性のつま先と、和泉の呼吸が、ときどき同じ間隔になる。和泉はそれを数えず、足の裏で受け取った。窓へ映る二人の姿は、聞こえる音の量に関係なく、同じ照明の中で揺れていた。
駅へ停まると拍子は消え、ドアが閉まるとまた始まる。その繰り返しが、案内放送より先に発車を知らせた。
女性は二駅先で立ち上がった。イヤホンを外さないまま、ドアの上の光を見て降りる。ホームへ出てもつま先は一度だけ拍子を刻み、それから人影の少ない階段へ消えた。
和泉は補聴器を戻さなかった。
次の駅名は光で分かる。ドアの開閉は風で分かる。車輪の回転は足の裏で分かる。聞こえない部分を、すべて欠けたものとして埋めなくてもよかった。
自宅の駅を示す橙色が点いた。和泉は鞄の中で補聴器のケースを確かめ、立ち上がった。車内放送の語尾だけが遠く聞こえる。
ホームには雨が降っていた。屋根をたたく音は左耳へ薄く入り、足元には確かな振動として落ちる。
今日はもう、誰の言葉も聞き落とさないように頑張らなくていい。和泉は光を頼りに改札へ向かった。静かな部分を残したままでも、今夜は一人で帰れると思った。