零号室
一〇一号室の前で、男は消えた。
古い集合住宅で、住人の保管していた現金が盗まれた。廊下の監視映像には、革ジャンの男が一〇一号室へ近づき、画面右端の死角へ入る姿が残っている。だが室内の防犯装置は反応せず、男が戻る映像もなかった。
映像の壁に掛かった消火器には、「使用法」の文字が左右逆に見えた。管理会社は、カメラ映像を反転表示しているせいだと言った。
ところが一〇一号室の表札だけは、数字が正しく読める。住人が反転を見越して逆向きの札を作ったのだろう、と管理人は笑った。
現金は部屋の押し入れにあったという。鍵に傷はなく、窓も閉まっていた。住人は革ジャンの男を知らないと話したが、映像を見せると顔を伏せた。
住人は、盗まれた紙幣の番号を一枚も記録していなかった。それなのに被害額だけは、共用金庫の月末残高と一円単位で一致していた。管理人は偶然だと言ったが、個人のへそくりを説明する言葉にしては、帳簿の数字を読み上げるように正確だった。
私は現場の廊下に立ち、カメラの向きを確かめた。レンズは一〇一号室を向いていない。玄関ホールの大きな姿見へ向けられ、その反射で廊下全体を映していた。古い建物で配線を延ばせず、鏡を使って死角を減らしたのだという。
ならば、画面に映る一〇一号室は鏡の中にある。消火器の文字が逆なのは当然だ。数字が正しく見えた表札だけが、実物ではない。
私は鏡の裏側へ回った。そこには郵便受けと、管理組合の共用金庫がある。誰も部屋番号を付けていない小さな扉に、裏返した「一〇一」の札が貼られていた。鏡越しにだけ正しく読めるように。
革ジャンの男は一〇一号室へ近づいたのではない。カメラのすぐ下にある共用金庫へ近づき、そのままレンズの真下を通って管理人室へ入った。
盗まれた現金も、住人個人のものではなかった。管理組合の修繕積立金だった。住人と管理人は共謀し、部屋の盗難に見せかけていたのである。
一〇一号室の前で、男は消えた――そう見えた場所に、一〇一号室はない。
鏡の中の部屋番号は、実在する部屋を示す札ではなかった。
カメラの足元にある、帳簿にも図面にも載らない「零号室」への目印だった。