非常停止ボタン

国枝篤子は、最終電車のドアが閉まる瞬間、乗客の長いコートベルトが外へ垂れているのを見た。本人は車内で気づかず、列車がわずかに動きだす。

篤子の隣にいた女性が、ホームの非常停止ボタンへ走った。篤子も同時に手を伸ばす。二人の指が透明なカバーの上でぶつかった。

車内の女性はイヤホンをしていて、周囲の客が示す腰元を理解していない。コートのベルトはドアの隙間から外へ伸び、先端の金具がホームを跳ねた。駅員は反対側の車両を見ており、こちらを向いていない。篤子は状況を声に出して確認しようとしたが、発車音に消された。

「本当に挟まってますか」

「動いてから確かめるんですか」

篤子は経理の仕事をしていて、確認せずに数字を動かさない。誤って列車を止めれば大勢に影響する、と一瞬で考えた。女性はもうカバーを上げていた。考える前に止める人らしい。

車両がもう一度揺れ、ベルトがホームを擦った。

篤子は女性の手の上から、赤いボタンを押した。

警報音が鳴り、列車が止まる。駅員が駆けつけ、ドアを開けてベルトを外した。乗客の女性は何が起きたのか分からない顔で、自分の腰から垂れた布を見た。

安全確認に数分かかり、ホームではため息が上がった。駅員は防犯映像で挟まりを確認し、二人へ「押して正解でした」と告げた。隣の女性は当然のように受け取り、篤子はその言葉を確認印のように胸へ置いた。同じ結果でも、必要とする確証の量は違っていた。篤子は自分の確認が遅かったことを恥じたが、隣の女性は謝る様子がない。

「迷わないんですね」

「あとで違ったら謝ります」

「私は、違わないと分かってから押したいです」

「それでも押しましたね」

駅員が、ボタンを押した人の名前を尋ねた。二人は別々に名乗り、同じ時刻を確認書へ書いた。考え方は最後まで反対だった。

運転再開のベルが鳴る。救われた女性は車内から何度も頭を下げた。

篤子と見知らぬ女性は、同じボタンを押した手を、それぞれ別のポケットへ戻した。