頬に残したマスク

伊吹は酸素マスクを横へずらし、粘着テープで左頬へ貼りつけた。

榊原は目を丸くしたまま、自分のマスクを鼻と口へ強く押し当てる。

二人の個人ボンベは同量。室内には開始時の空気があるが、十分後には床下から窒素が入り、呼吸用酸素が必要になると説明されていた。

規則は一文だけだ。

《終了ベルまでにマスクを顔から離した者は失格。失格せず、ボンベ残量が多い者を勝者とする》

伊吹のマスクは頬に密着している。だが鼻と口は露出し、彼はまだ普通の室内空気を吸っていた。ボンベの元弁も閉じたままだ。

「それは装着したことにならない」

榊原が言う。

「装着という言葉は、規則にない」

残り二分で窒素注入の警告灯が点く。榊原は勝ちを確信し、伊吹が慌ててマスクを戻す瞬間を待った。

伊吹は頬へ貼ったままのマスクから伸びる管を指で折り、反対側の鼻孔へ細い非常用カニューレだけを差した。カニューレはマスクの内側部品であり、ボンベの使用量は最小流量に抑えられる。

榊原の大きなマスクは隙間から窒素を吸い込み、補うために流量を上げた。

終了ベル。

《伊吹、残量82%。榊原、残量27%。両名、マスク接触継続》

榊原が立ち上がりかける。

「顔から外していただろう!」

判定カメラには、開始から終了まで頬へ貼りついたゴム縁が映っている。

「鼻と口を覆え、なら負けていた。顔から離すな、だったから守った」

主催者は、誰もがマスクの用途から正しい位置を補うと信じた。だが規則が縛ったのは機能ではなく、顔との接触だけだった。

粘着テープはマスクの漏れを塞ぐ補修用として、二人の卓上に同じ長さだけ置かれていた。伊吹はそれを規則違反の道具に変えたのではなく、《離れていない》状態を機械へ途切れなく記録させるために使った。接触センサーの緑灯は、頬へ移した後も一度も消えていなかった。

伊吹の扉が開く。彼はそこで初めてテープを剥がし、赤くなった頬からマスクを離した。