髪を切らない客

理髪店には、客席より一脚多く椅子を置く。

余分な椅子は、来店したのに髪を切らなかった客のためのものだ。閉店後、最後に残った理容師が白いケープを掛け、「どこを短くしますか」と尋ねる。返事がなくても三分待つ。椅子が一周した場合、翌日の営業までに、店に関する何かを一つ短くしなければならない。髪を切ることは認められない。

千代反田は、師匠から譲られた店を一人で続けていた。

商店街の客は減り、予約表には空白が増えた。床へ落ちる髪より、外を通るシャッターの音の方が多い日もあった。四脚目の鏡だけは曇らず、閉店後の千代反田の後頭部を毎晩正確に映した。それでも営業時間を変えず、師匠が使った三脚の椅子と、誰も座らない四脚目を毎朝磨いた。遠方へ転職した恋人からは、店を閉めて一緒に来ないかと言われた。千代反田は「来年考える」と三度答えた。四度目の連絡はなかった。

師匠が生きていたころ、四脚目は一度だけ回った。千代反田が国家試験を諦めると言った夜だった。師匠は営業時間を十分短くし、駅まで願書を出しに走らせた。その十分を、千代反田は今まで一度も店へ返せていない。

月末、家主が更新契約書を持ってきた。家賃は上がる。署名すれば、また二年ここにいる。

その夜、最後の客を見送った後、四脚目へケープを掛けた。

「どこを短くしますか」

椅子は黙ったまま、一周した。

千代反田は鋏を手に店内を見た。営業時間を一時間短くする。看板の店名を一文字削る。更新期間を一年に直す。どれもできる。恋人へ送らず残している長いメッセージを消すことも、店に関することではないとは言い切れなかった。

彼は更新契約書を縦に細く切った。次に、入口で回り続ける赤青白のサインポールの電源コードを、師匠の鋏で一度だけ切った。

店は急に静かになった。

翌朝、四脚目はなくなっていた。床には丸い跡だけが残り、その中央に白髪が一束置かれている。師匠の髪より長く、千代反田の髪より白かった。

束を結んでいたのは、切ったはずのサインポールのコードだった。断面からは赤、青、白の細い毛が伸び、開店時刻になっても、ゆっくり三色で回っていた。