鯖を冷ますあいだ
綿貫苑が原稿を届けに出ようとすると、大家の惣一が階段下で鯖を三尾抱えていた。
「市場で安かった。南蛮漬けにするから、玉葱を切ってくれ」
「締切なんです」
「冷ます時間に出せばいい」
理屈が通っているような、いないような誘いだった。
苑はフリーの校正者で、一日中、他人の文章の間違いを探している。仕事が終わる頃には、自分の生活まで赤字で直したくなる。食事は遅れ、洗濯物は畳まれず、隣人との会話も要点だけになっていた。
惣一が鯖を三枚におろし、苑が玉葱と人参、ピーマンを細く切る。酢、砂糖、醤油、だしを合わせ、赤唐辛子を一本浮かべた。
片栗粉をまぶした鯖を油へ入れると、皮がぱちぱち弾けた。揚がった端から熱い漬け汁へ沈める。じゅっと音がして、酢の鋭い香りが湯気と一緒に鼻へ上がった。
「今食べた方がおいしそう」
「まだ味が喧嘩してる」
「待てば直ります?」
「直すんじゃなく、馴染む」
容器を並べている間に、苑は原稿を届けて戻った。惣一の部屋では、鯖が野菜の下で静かに冷めていた。
二人で少し早い夕飯にする。鯖の衣は汁を吸って柔らかくなり、身には酸味と甘みが染みていた。生の玉葱の辛さも、先ほどより丸い。冷たい料理なのに、揚げた名残の温度が身の中心にわずかに残っている。苑はその曖昧な温かさを確かめるように、ゆっくり噛んだ。
「文章も寝かせると、間違いが見えます」
「人間も寝かせた方がいい」
「私は冷蔵庫に入りません」
「布団で十分だ」
苑は笑い、二切れ目を取った。
いつもなら食後すぐ仕事へ戻るが、その日は惣一と茶を飲み、台所の時計が一周するほど他愛ない話をした。漬け汁の残りで明日何を和えるかも相談した。
「鶏でもいいな」
「厚揚げも」
「締切は?」
「明日の朝です」
「なら今夜は寝ろ」
自室へ戻ると、机の上の原稿はまだ赤字を待っていた。苑は時計を伏せ、残りの南蛮漬けを冷蔵庫へ入れた。
酢と揚げ魚の香りが服に残り、尖っていた一日の端が、ゆっくり丸くなっていくようだった。