鯨油の鐘

ヨルンは鐘へ鯨油を塗った。

青銅の表面がぬらりと光り、潮霧を弾く。鐘は港の教会から外したもので、人の背丈ほどある。今夜は船に積まず、筏へ載せた。

「油は燃やすためか」

老鐘守シグヴァが訊いた。

「火と音を同じ方角へ流す」

敗れた北湾艦隊は、濃霧の中を東の岩門へ退く。追うカルド提督の艦隊は西から迫る。霧では帆影が見えない。互いに鐘と灯だけを頼りに航路を読む。霧の海では、見えない物より聞こえた物の方が確かに思える。だから音は、旗より強い嘘をつける。

ヨルンは鐘を積んだ筏へ鯨油の樽を結び、西へ流すつもりだった。鐘を鳴らし、油へ火を放てば、敵は退却艦隊の旗艦が西へ逃げたと思う。

「筏は潮に回される。鐘を一定に鳴らす者がいる」

シグヴァはもう櫂を持っていた。節くれた指には、四十年鐘綱を引いた跡が白く残っている。

「鐘守は鐘と行く」

「筏は戻らん」

「教会も焼けた。戻る場所が先に消えた」

ヨルンは反対しなかった。海の男に死ぬなと言うのは、陸を泳げと言うのと同じだ。

東へ向かう二十三隻は帆を畳み、櫂に布を巻いた。筏だけが西へ出る。シグヴァが鐘を一度打つ。低い音が霧を押し、海面を遠く走った。

敵艦から応答の角笛が鳴る。進路を西へ変えた合図だ。

「速すぎる」とヨルンは呟いた。

カルドは慎重な男だ。鐘一つで全艦を動かさない。囮を疑い、半数を東へ残すはずだった。

次の鐘が二度、間を置かず響いた。旗艦が浅瀬を避けるときの合図。シグヴァは敵の航海規則まで知っていた。退却艦隊らしく見せるため、潮目に合わせて音を変えている。

敵の角笛が長く鳴った。東に残った船も西へ向きを変える。

霧の奥で、鯨油に火がついた。ぼんやりした橙の光が鐘を包み、旗艦の船尾灯のように揺れる。やがて砲声が一つした。敵が筏を見つけたのだろう。鐘はなお三度鳴った。

ヨルンは東の岩門を探した。二本の黒い崖の間に、味方の灯が縦に並ぶ。全艦が帰ったと数え終えた印だった。

最後の鐘が霧の西で途切れた。

岩門の砦から号令が飛び、港を塞ぐ大鎖が海中へ下ろされた。