黒いエプロンの遺失物
神崎和花は、会社の会議室で拾ったUSBメモリを、ハンカチに包んでカフェ〈拾得〉へ持ち込んだ。
バリスタの能登遙は、黒いエプロンへ白いチョークで短い線を何本も引いている。傘、財布、鍵。落とし物を持ち主へ返すたび一本消すらしい。
「拾ったものは、持ち主を選べません」
USBには、来月発表予定の人員整理リストが入っていた。和花の名前もある。直属の上司が対象者と面談する順番、退職条件、引き継ぎ先まで記されていた。
「匿名で総務に返せばいいですよね」
遙はドリッパーへ湯を落としながら、和花の鞄を見た。会社のプリンターで出したらしい紙の角と、自宅宛てに転送したメールの送信画面がのぞいている。
「もう中身を複製していますね」
「自分の人生に関わるんです。証拠を残すくらい」
「返す相談ではなく、どう使えば損をしないかの相談ですか」
和花は言葉に詰まった。リストを上司へ見せ、配置転換を取り消させることも考えた。対象者へ一斉に送れば会社は混乱する。けれど黙って返せば、自分だけ何も知らないふりをして面談を受けることになる。
遙は珈琲を一口分だけ注ぎ、抽出を止めた。
「秘密を見たことと、秘密を武器にすることは別です」
「じゃあ、忘れろと?」
「いいえ。拾った経緯を、あなたの言葉で記録する」
遙は店の落とし物用封筒を出した。発見した日時、場所、触れた端末、中身を見た範囲、複製したこと。和花が書く横で、遙は時計と封入の様子を店の記録票へ残した。
「総務の内部通報窓口へ、封をしたまま提出する。複製があることも隠さない。人員整理の是非ではなく、機密情報の管理と、拾得者への不利益を分けて問い合わせる」
「私が悪いことにされませんか」
「だから、匿名にしない。名前を出す代わりに、受領者と時刻を残す」
遙は無愛想だが、和花が一人で会社へ戻らずに済むよう、店の複合機で封筒の表だけを写し、控えに署名した。法律家のような約束はせず、「少なくとも、何をしたかを誰かに書き換えさせないためです」と言った。
和花は転送メールも削除せず、存在を申告することにした。自分を守るための秘密が、新しい弱みになるのを止めたかった。
会計のあと、遙が黒いエプロンへ白い線を一本加えた。
「返してないのに、増やすんですか」
「これは落とし物ではありません」
線の横へ、小さく『神崎和花』と書く。
「拾ったものは持ち主を選べない。でも、拾った人は、自分を見失わない方を選べます」
遙はその一本だけ消さず、黒い布の中央に残した。