黒板のまたねを消す

黒板の「またね」を消す

碓氷莉子は、閉店する書店の黒板に最後の言葉を書けずにいた。

《二十年間ありがとうございました》

《またどこかで》

どちらも嘘ではないのに、白いチョークが止まる。レジ下の箱を片づけると、制服のポケットから持ち帰った小さなチョークが出てきた。高校の卒業式の日、黒板の「またね」を消した残りだった。

最後のホームルームが終わると、教室中の生徒が黒板へ言葉を書いた。好き、ありがとう、絶対会おう、十年後も友達。莉子は日直だったため、最後に黒板を消す役を頼まれた。

皆が写真を撮り終えたあと、史歩が白いチョークで中央に《またね》と書いた。

莉子と史歩は、二学期から話していなかった。進路相談で莉子の家庭事情を、史歩が別の友人へ漏らしたからだ。謝罪は受けたが、許せなかった。史歩は春から海外へ行く。たぶん二度と会わない。

「会う気ないくせに」

莉子が言うと、史歩はチョークを置いた。

「うん。会えるか分からない」

「じゃあ、書かないでよ」

「『またね』って、予定じゃないと思ってた」

史歩は鞄を肩へ掛けた。

「ここで全部終わったって決めないための言葉」

莉子には、きれいごとにしか聞こえなかった。史歩が教室を出ると、黒板消しを強く押し当てた。花も、名前も、約束も消した。最後に《またね》の四文字へ手を伸ばす。

一度で消すつもりだったのに、「ま」の曲線だけが薄く残った。何度こすっても、白い粉が黒板の傷へ入り込んだ。莉子はチョークの欠片を拾い、なぜか捨てられず、制服のポケットへ入れた。

史歩とは本当に会わなかった。連絡先も変わり、仲直りの機会は来なかった。それでも、あの日の関係が失敗だけでできていたとは、今は思わない。終わったことと、無かったことは違う。

書店の黒板の前で、莉子は古いチョークを持つ。もう「また会える」と約束するためではない。この店で本を選んだ人たちの時間が、閉店と同時に消えないように。

《またね。本のつづきで》

そう書くと、チョークは指の間で小さく折れた。

莉子は欠片を箱へ戻さず、店の外の植木鉢へ落とした。白い粉は土に混じり、見えなくなる。シャッターを下ろしたあと、莉子は次の職場へ持っていく一冊だけを抱え、振り返らずに駅へ歩いた。