円満退職の肩書
佐久良コンサルの退職面談で、牧ノ瀬悠莉は在職証明書の文面にだけこだわった。
「部門長では弱いです。執行役員と書いてください」
人事部長の遠野は首を横に振った。「あなたの正式役職はチームリーダーです」
「対外的には役員相当でした。次の会社も、その前提でオファーを出しています」
牧ノ瀬はすでに引き継ぎを終え、送別会の日程まで決まっていた。会社側も、優秀な社員の円満退職として推薦状を出す予定だった。遠野の机には、社長署名済みの推薦状が伏せて置かれている。
遠野は机上の紙を整えた。「次の会社から、照会メールが来ています。なぜかあなたがCCに入っていました」
牧ノ瀬の表情が初めて動いた。次の会社の採用システムが照会先を自動でCCへ入れたらしく、添付資料までそのまま届いていた。
メール添付の履歴書には、現職が〈執行役員・戦略部門長〉。さらに三件の企業再生案件を責任者として成功させたとある。どれも牧ノ瀬が議事録係として参加した案件だった。
「職務を分かりやすく要約しただけです」
遠野は共有ドライブのアクセス履歴を開いた。三案件の最終提案書に牧ノ瀬が初めてアクセスしたのは、転職面接の一週間前。権限は閲覧のみで、編集履歴はゼロ。会議室予約の役割欄には、三件すべて〈記録担当〉とある。
「裏方が実質的に案件を動かすこともあります」
「では、顧客への報告メールに一度もCCされていないのは?」
「上司が情報を独占していました」
遠野は、牧ノ瀬が次の会社へ送ったメールを表示した。〈在職証明書も執行役員表記で発行されます〉と断言している。送信時刻は、証明書の依頼をする三日前だった。
牧ノ瀬は腕時計を見た。「退職はもう決まっています。会社に私の転職を止める権利はありません」
「退職そのものは止めません」
遠野は、用意していた円満退職者向けの推薦状を破棄箱へ入れた。代わりに、コンプライアンス調査開始通知を机の中央へ置く。
「円満退職の認定と推薦状発行は撤回します。在職証明書には、正式役職だけを記載します」