あさりが開く音
久住晴臣は、同僚の席が空いたあとで、自分の言い方が間違っていたと分かった。
夕方の進捗会議で、同僚が出した数字の誤りを指摘した。内容は正しかった。同僚の誤りを放置すれば、翌朝の顧客報告で数字がずれる。だから訂正は必要だったし、晴臣にはその責任もあった。だが晴臣は、全員の前で「前にも同じミスをしたよね」と付け加えた。同僚は「すみません」とだけ答え、その後の残業中、一度も晴臣を見なかった。いつもなら確認のたびに椅子を寄せてくる同僚は、チャットだけで資料を送り、定時を過ぎると「お先に失礼します」と画面へ書いて帰った。
チームのためだ、と自分へ言い聞かせているうちに終電が近づいた。正しい指摘をした自分と、余計な一言を足した自分を、同じ箱に入れて守ろうとしていた。
帰り道の居酒屋には、客が晴臣一人だけ残っていた。あさりの酒蒸しを頼むと、店主は小鍋へ蓋をした。
しばらくして、鍋の中から、かち、かち、と殻の触れ合う音がした。蓋を開けると酒と潮の匂いが湯気になって広がり、あさりの口が一つずつ開いている。薄い身を箸で外すと、殻の内側に透明な汁が光った。
「音がするんですね」
晴臣が言った。
「開くときは」
店主は鍋をのぞき、一つだけ閉じた殻を箸でよけた。
「開かないのもあります」
晴臣は同僚とのチャットを開いた。謝罪文を書き始めると、すぐに「ただ、数字の確認は必要で」と続けたくなった。それでは、正しさをもう一度押しつけるだけだ。
明日の朝、会議が始まる前に席へ行こう。人前で過去のミスまで持ち出したことを謝る。訂正が必要だったことと、恥をかかせる必要がなかったことを分けて話す。返事を求めず、今後の確認方法は午後に相談する。
同僚が許すとは限らない。沈黙は続くかもしれない。自分が嫌な先輩になった事実も消えない。謝罪を、以前の距離へ戻るための鍵にしてはいけない。ただ、自分の側の扉を開けることはできる。
晴臣は開いた殻から最後の身を外し、鍋の汁を匙ですくった。酒の角は熱で飛び、潮の塩気だけが喉へ残った。閉じた殻は皿の端で冷えたままだった。