あとから来る出汁
和泉暁彦は、明日から大学の広報室で働く。今夜まで、地方紙の記者だった。
事件取材を十年続けるつもりで入社し、六年で辞めた。夜中の呼び出しと、被害者宅の前で待つ時間と、書いても何も変わらない記事に疲れた。大学広報なら勤務は安定し、文章も書ける。そう考えて応募した。
退職を知った先輩からは、『安全な側へ行くんだな』と言われた。責める口調ではなかったぶん、暁彦の中で何度も響いた。大学にも不祥事は起きる。そのとき広報として何を書くのか、今は答えを持っていない。
ただ、暁彦の机には、記事になっていない取材ノートが一冊残っている。地元企業の不正を追い、元社員三人から話を聞いた。裏付けが足りず、担当を外れることになった。後任の記者は若く、暁彦が集めた情報を受け取ると言っている。
ノートには、取材相手の震えた筆跡や、録音を止めてから話した一言まで書いてある。単なる会社の資料だと思い切れない。
ノートを渡せば、取材源との約束まで他人へ預けることになる。持ち去れば、記事になる可能性を自分で消す。
居酒屋「余白」で、店主は揚げ出し豆腐を作った。豆腐が油へ入ると、衣の周りで細かな泡が弾けた。器へ置いてから熱い出汁を注ぐと、じゅっと音がし、鰹と醤油の匂いを含んだ湯気が立った。大根おろしは端に白く残った。
「出汁は、揚げる前じゃ駄目なんですね」
「形ができてからだ」
暁彦は取材源三人へ、短い連絡を送った。自分が退職すること、後任へ資料を渡してよいかを尋ねる。返事が来た人の分だけ、明朝、編集部へ置いていく。返事のない資料は持ち出さず、会社の保管庫へ封をして残す。
全部を記事にできないまま辞める悔しさは消えない。大学の広報で、都合の悪い事実を飾る側になる恐れもある。それでも、未練を正義のように抱えて約束を破ることはしない。
一人目から『渡してください』と返事が来た。暁彦は揚げ出し豆腐を崩した。衣は出汁を吸って柔らかくなりながら、中心には白い熱が残っていた。鰹の香りは、噛んだあとから強くなった。