いちばん売れない缶
深夜のビルに、古い自動販売機が一台あった。
翻訳アプリを入れると、その機械でいちばん売れていない商品を買ったときだけ、自動販売機の声が一文聞こえる。
夜警は興味本位で、温かいトマトジュースを買った。
売れていない理由がよく分かる味だった。
自動販売機が言った。
「清掃の人、毎晩これを押して、やめる」
翌晩、清掃員の女性が機械の前でトマトジュースのボタンへ指を置き、財布を見て水に変えた。
夜警は見て見ぬふりをした。
次の日も最不人気を買う。
今度は冷たい甘酒。
「三階の人、金曜だけ硬貨を一枚多く入れる」
調べると、残業する社員が釣り銭口へ百円を残していた。
誰かの飲み物代らしい。
自動販売機は人の秘密を知っているのではない。
押されたボタンと、入れられた硬貨しか覚えていない。
それでも、数字の間に小さな手つきが残っていた。
夜警は釣り銭口へ一枚入れ、清掃員へ言った。
「今日はトマト、誰かのおごりらしいです」
女性は笑った。
「それ、まずいから売れないんですよ」
「知ってます」
二人で一本を紙コップへ分けた。
やはりまずかった。
その後、夜警は最不人気の商品を一日一本買った。
昆布茶。
炭酸入り牛乳。
季節外れの冷たい汁粉。
自動販売機の声は、短い報告を続けた。
「新人、毎朝コーヒーを選ぶふりして帰る」
「配達の人、雨の日だけ二本」
「清掃の人、今日は押さなかった」
女性が休んだ日だった。
夜警が心配して連絡すると、熱を出していた。
同僚と仕事を代わり、薬を届けた。
自動販売機が人をつないだというより、夜警がそれまで数字の外にいた人へ目を向けるようになったのだ。
春、機械は新型へ交換された。
最終日、夜警は一番売れなかったトマトジュースを買った。
「私、撤去。賞味期限、明日」
機械は自分のことまで販売記録のように話した。
夜警と清掃員は、残った缶を全部買った。
夜勤の人たちへ配り、屋上で乾杯した。
誰もおいしいとは言わなかった。
新しい自動販売機は翻訳アプリに対応しない。
その代わり、脇に小さな箱が置かれた。
「一杯分、置いていけます」
硬貨が入る日も、空の日もある。
夜警は売れ筋だけでなく、押しかけてやめた指の動きも見るようになった。
言葉にならない遠慮は、機械が話さなくても、少し注意すれば見える。