にしんの照りが冷めるまで
香坂史朗が「北窓」のカウンターへ座ると、店主は小鍋からにしんの甘露煮を出した。
「骨まで柔らかいほう、好きだったな」
史朗は祖父に連れられてこの店へ来ていた。祖父は小骨を気にせず食べ、史朗にも、よく煮た魚は慌てず噛めばいいと言った。祖父が亡くなってから、史朗は店を避けていた。
黒い照りのある身から、醤油と砂糖の濃い匂いが立つ。箸を入れると皮が静かに裂け、白い湯気が細く上がった。口へ入れた小骨は硬さを失い、甘い煮汁と一緒にほどけた。
史朗の鞄には、祖父の腕時計が入っている。
明日の昼、買い取り店へ持っていく予約をした。副業で始めた通販が失敗し、在庫代と家賃の支払いが重なったからだ。時計を売れば、今月は越えられる。使っていない物を現金にするだけだと、自分へ言い聞かせている。
だが祖父は、就職祝いにその時計を渡すとき、「困ったら時間を見ろ。売れとは言わん」と笑った。高価な品ではない。売っても足りない可能性さえある。
腕時計の裏には、祖父が工具をぶつけた小さな傷がある。高く売るなら磨いたほうがよいと、買い取り店の案内には書かれていた。史朗は布を出したものの、その傷だけは消せず、箱へ戻した。値段にしにくい部分ほど、手放すと戻らない。
「冷めると、照りが固まるぞ」
店主が言った。
史朗は皿を見た。表面の煮汁は、熱いうちは光って流れる。少し待つと、薄い膜になって身へ残った。
買い取り予約を取り消した。代わりに、以前登録していた派遣会社へ、明朝連絡を希望すると送った。週末の倉庫勤務なら、本業と両立できるかもしれない。さらに妹へ、通販の失敗と不足額を今夜中に話すと決めた。金を借りるためではなく、時計を黙って売ったあとで知られるのを避けるためだ。
支払い期限は変わらない。仕事がすぐ見つかる保証もない。結局、時計を手放す日が来るかもしれない。それでも明日は、売る前に別の手を一つ試す。
最後のにしんは少し冷め、照りが舌へねっとり残った。柔らかな骨を噛むと、甘さの奥に魚の塩気があり、胸の内側へぬるい温度が沈んだ。