ひとつだけの返事
戸倉未琴の夫は、今夜一度だけ返事をする。
それを、啓造は指を一本立てて示した。
声はまだ聞いていない。
亡くなって三か月。
未琴が寝室の灯りを消すと、啓造が窓辺に立っていた。
生前と同じ、首の伸びた寝巻きを着ている。
「どうして来たの」
啓造は口を閉じたまま、立てた指を揺らした。
質問は一つ。
返事も一つ。
未琴はベッドへ座った。
何を聞くべきか、考えた。
死ぬとき苦しかった?
私を恨んでる?
浮気してた?
保険証券、どこにしまった?
あの世はあるの?
また会える?
最後の質問だけが喉まで出て、止まった。
「また会える」と答えられたら、未琴は残りの人生を待つだけになる。
「会えない」と言われたら、今夜まで失う。
啓造は時計を見た。
生前から、待つのが苦手だった。
「急かさないで」
啓造が肩をすくめる。
二人は三十八年暮らした。
大恋愛ではなかった。
見合いで会い、二度目の食事で啓造が味噌汁をこぼし、未琴が笑った。
喧嘩は多く、旅行の好みは合わず、同じテレビ番組を見ても違うところで笑った。
亡くなる一週間前、啓造は退院したいと言った。
未琴は医師の勧めに従い、病院に残した。
家へ連れ帰れば、自分が面倒を見切れないと思った。
最後の夜、病院から電話が来た。
未琴は睡眠薬を飲んだあとで、タクシーを待つあいだに息を引き取った。
「帰りたかった?」
聞けば、たぶん「帰りたかった」と答える。
その一言を一生背負う覚悟が、未琴にはなかった。
「私の判断、間違ってた?」
啓造は口を開きかけた。
未琴は手を上げた。
「まだ。今のは質問じゃない」
夜が深くなる。
二人で古いアルバムを見た。
啓造は写真を指し、声を出さずに笑った。
娘の七五三。初めて買った車。喧嘩して別々に写った銀婚式。
午前四時、啓造の姿が薄くなった。
未琴は焦った。
正しい質問を探した三か月だった。
だが正しい問いなどないのかもしれない。
「あなた」
啓造が顔を上げる。
未琴は聞いた。
「私と暮らして、退屈じゃなかった?」
啓造は目を丸くした。
もっと大事なことを聞けという顔をした。
それから、今夜初めて声を出した。
「忙しかったよ」
笑いをこらえた声だった。
未琴も笑った。
泣きながら、腹を抱えて笑った。
啓造は一度しか返事をしなかったが、その顔には、続きがいくらでもあった。
朝の光が入り、窓辺が空になる。
未琴は寝巻きを畳んで処分した。
保険証券の場所はわからないままだった。
娘に電話して、一緒に探してもらうことにした。
三十八年は、大切な質問一つでまとめられるほど短くなかった。
返事一つで十分だったのは、そのためだ。