もう一度を断る音

二十九歳の土岐みちるは、「もう一度だけ」に弱かった。取引先からの修正、友人の相談、職場の当番。最後だと言われるたび引き受け、最後が終わると別の最後が来た。

断る理由が十分でない気がした。体調が悪いほどではない、予定は動かせないほどではない、自分より忙しい人がいる。そう考えているうちに、夜の予定はいつも他人の都合で埋まった。先月は自分の誕生日の食事を二度延期し、友人に『本当に会いたい?』と聞かれた。会いたかった。けれど依頼を断ってまで会うと、その時間を誰かから奪ったように感じる。結局、誕生日は修正版を送った時刻で終わった。

駅前で、鷺沼直樹がスチール・タング・ドラムを叩いていた。円盤から柔らかな音が響く。急かすような強さはなく、同じ響きが消えきってから次の一打が置かれた。みちるは、その間なら何かを断っても言葉が壊れない気がして立ち止まった。みちるが立ち止まると、鷺沼は同じ音を何度も鳴らし始めた。

一回、二回、三回。十回を過ぎても続く。みちるは五回目で十分だと思ったが、演奏を止める権利が自分にあるとは考えられず、十一回目まで黙っていた。

「いつ止めたくなりました?」

「三回目くらいです」

「次は三回目より前に、手を上げて止めてください」

鷺沼がまた叩く。一回目。まだ早いと思う。二回目が鳴る直前、みちるは慌てて掌を上げた。鷺沼の指が空中で止まる。静けさが生まれたが、誰も困らない。鷺沼はただ別の音から曲を始めた。

その夜、取引先からメッセージが届いた。〈明朝の会議用に、表紙だけもう一案いただけませんか。今回で最後です〉。みちるはすでにパソコンを閉じ、友人と食事へ行く支度をしていた。作業は一時間あればできる。予定を遅らせれば間に合う。

「承知しました」と打つ。送信の前に、二回目の音を止めた掌を見る。十分な理由を列挙しようとすると、また引き受ける文になる。

みちるは文章を消し、〈本日は対応できません。明日午後なら可能です〉とだけ打って送った。