インコの歌と固めプリン
スナック「青い羽」は、酒を飲まない客にも嫌な顔をしない。
カウンターの端には、セキセイインコのラムネがいる。夜九時になると布をかけられるが、それまでは客の口笛や笑い声を勝手に覚える。
早良円香は、炭酸水だけを頼んで三十分黙っていた。
商店街の小さな音楽会で、歌詞を忘れたのは一週間前だ。伴奏だけが進み、客席の知人たちが励ますように手拍子を始めた。その優しさが怖くなり、途中で舞台を下りた。
歌は趣味だった。誰に頼まれたわけでもない。それなのに、失敗してから台所でも風呂でも、一小節も口にできない。
「甘いもの、入る?」
ママの久世が、銀の皿へプリンを載せた。昔ながらの固いプリンで、濃い茶色のカラメルが底へたまっている。
「スナックにプリン?」
「卵が余ったの」
「歌わない客にも?」
「歌は席料に入ってません」
円香が匙を入れると、プリンは少し抵抗してから、つるりと切れた。卵の濃い味と、カラメルの苦さ。甘いだけではないことが、今夜はありがたかった。
ラムネが突然、音楽会で歌った曲の冒頭を口笛で鳴らした。音程は外れ、最後だけ妙に高い。
「誰が教えたの」
「あなた。先月ここで」
円香は顔を覆った。
「忘れてほしい」
「この子、途中しか覚えてないよ」
久世はラムネへ粟穂を一本渡した。
「でも途中までで、結構楽しそうでしょう」
ラムネは同じ三音を何度も繰り返した。正しくなる気配はない。けれど本人は胸を張り、客の拍手も待たずに粟を食べ始める。
「間違えても平気なんですね」
「鳥は、歌い終わったあと反省会をしないからね」
円香は炭酸水を一口飲み、インコの三音へ続きを重ねた。声は小さく、最初は掠れた。久世は振り向かず、グラスを磨いている。ほかの客も話を止めない。
サビまで来たとき、ラムネが全く違う音で割り込んだ。円香は吹き出し、そのまま笑い混じりで最後まで歌った。
帰る頃、プリンの皿にはカラメルが一滴だけ残っていた。久世が店の灯りを少し落とし、ラムネに布をかける。
「また忘れたら?」
円香が訊く。
「ここでは、鳥が続きを歌うよ」
外の夜気は冷たかった。けれど喉には卵の甘さとカラメルの苦みが残り、鼻歌は角を曲がるまで途切れなかった。