カーテンコールの裏側
稲葉志帆は、幕が上がる直前になると台詞を全部忘れた。
舞台袖から見える客席は暗く、ざわめきだけが大きい。主演を引き受けた三週間前には平気だったのに、本番の十秒前、最初の一言さえ頭から消えた。
「無理」
志帆が後ずさると、背景の柱を支えていた伴野一成が縄を三回引いた。
トン、トン、トン。
大道具係の合図だった。場面転換では一回、危険なら二回。三回は台本にない。
「何それ」
「練習のとき、稲葉が台詞を思い出すまで机を叩いてた音」
トン、トン、トン。
幕が上がる。
志帆は光の中へ押し出された。
最初の台詞は半分震えた。二つ目で息が続き、三つ目には相手役の顔が見えた。舞台の裏から、ときどき三回の音が届く。書き割りを動かす音に紛れ、観客には聞こえない。志帆だけが知っている拍子だった。
終盤、城が崩れる場面で本当に柱が傾いた。
客席が息をのむ。
志帆は台詞を続けながら、舞台袖を見た。柱の裏で一成が全身を使って支えている。顔は見えない。腕だけが震えている。
志帆は予定より前へ出て、最後の台詞を叫んだ。
「見えなくても、あなたがそこにいることを、私は知っている!」
劇中の相手へ向けた言葉だった。
けれど一成の手が、一瞬だけ止まった。
暗転。拍手。カーテンコール。
出演者が一列に並ぶ中、志帆は舞台袖へ走り、柱を置いたばかりの一成の手をつかんだ。
「ちょ、俺は裏方」
「知ってる」
「衣装も着てない」
「もっと知ってる」
そのまま光の中へ引っ張り出す。
一成はまぶしそうに目を細めた。事情を察したクラスメートが場所を空け、二人を中央へ押す。客席から今日一番の拍手が起きた。
志帆は深く頭を下げた。
一成も遅れて頭を下げる。
幕が閉じる途中、彼が小声で言った。
「さっきの最後の台詞」
「脚本通り」
「嘘。言い方が違った」
「じゃあ、演出」
「誰向けの?」
幕が完全に閉じ、二人は拍手の裏側へ戻った。
志帆は彼の手を離さず、三回握った。
トン、トン、トン。
一成は一度だけ握り返した。
それが何の合図か、今度は台本になくても二人とも分かっていた。