ココアの湯気が立つ前に
地域センターの調理室から、合鍵がなくなった。
子ども食堂を担当する白瀬結は、開室一時間前に鍵箱を見て息をのんだ。昨夜センターにいたのは、職員の三枝美冬、配膳ボランティアの柿沼、高校生スタッフの宵田真鈴。合鍵がなければ、本鍵を持つ館長が来るまで仕込みを始められない。外では冷たい雨が降り、開室を待つ親子が軒下へ少しずつ集まり始めていた。
だが廊下の奥から、甘い匂いがした。
鍵箱の下にはココアの粉が一粒。ベンチには幼児用の赤い片方の手袋。壁の温度計は、昨夜の記録より五度も高い二十三度を指していた。
結が調理室へ行くと、扉は開いていた。中では真鈴が大鍋を前に立ち、牛乳を焦がさないよう木べらを回している。床には子どもたちの上着が並び、美冬と柿沼が小さな靴を乾かしていた。
合鍵を持ち出したのは真鈴だった。
昨夜、参加者の一人が手袋を忘れた。届けに団地へ向かった真鈴は、その家の暖房が故障し、朝まで直らないと知った。幼い弟妹も震えていたため、今朝だけ早くセンターを開け、暖かい場所で朝食を食べてもらおうと考えたのだ。
「電話してくれればよかったのに」
結が言うと、真鈴は鍋を見たまま唇を結んだ。
半年前、真鈴自身が朝食を食べずに来ていた頃、結は事情を訊かず、毎回「味見を手伝って」とおにぎりを渡した。真鈴は助けられたと言うのが恥ずかしく、今度は自分が誰にも知られず同じことをしたかったらしい。もらった親切は、返す相手を変えてもいいのだと、結が以前話したことを覚えていた。
「親切って、見つかったら格好悪いから」
「鍵を黙って持っていく方が、だいぶ格好悪い」
結が答えると、美冬たちが笑った。真鈴もようやく笑い、ココア缶の中から合鍵を出した。子どもに触られないよう隠したつもりで、自分も場所を忘れていたという。
やがて赤い手袋の持ち主が、眠そうな弟を連れてきた。大鍋から白い湯気が上がる。赤い手袋は暖房の前で乾き、片方だったものが、もう一方と並べられた。
結は最初の一杯を真鈴へ渡し、自分のカップも重ねた。
「見つかる親切も、悪くないよ」