スタンド席の風
榛谷俊介は、日曜の朝に市営球場へ行く。
試合を見るためではない。草野球の練習を、外野側の古いスタンドから眺める。
入場料はなく、誰でも座れる。俊介は一番上の端へ座り、魔法瓶の茶を飲んだ。
中学までは野球部だった。
上手ではなく、高校では続けなかった。それでもボールがグラブへ収まる音や、土を蹴る音を聞くと落ち着く。
参加したいわけではない。見ているだけでよかった。
自宅では妻と子どもが休日を過ごし、職場では部下が相談を持ってくる。
どちらも大切だが、球場では誰も俊介を呼ばない。
ファウルボールが飛んできたときだけ、拾って投げ返す。
毎週、グラウンド整備の男性が話しかける。
「今日も監督席?」
「勝敗に責任を持たない監督です」
「一番いい役だ」
男性はラインを引き、ベンチのごみを集める。
ある日、練習が中止になった。
前夜の雨で、内野に水が残っている。
俊介は誰もいないスタンドへ座った。
音がなく、少し物足りない。
整備の男性が缶珈琲を二本持って上がってきた。
「観客一人のために試合はできないが、休憩はできる」
二人で空のグラウンドを見た。
水たまりへ空が映り、外野の芝から湿った青い匂いが上がる。
「やらない野球を、見に来るのは変ですか」
俊介が訊く。
「やる人ばかりだと、見る席が余る」
「応援もしてません」
「席を温めてる」
二人は珈琲を飲み、何も起こらない球場を眺めた。
風がホームベースの砂を少し乾かし、鳥が一羽、外野へ降りた。
翌週、練習は再開した。
俊介がいつもの席へ座ると、整備の男性が下から手を上げた。
打球音が響き、白い球が高く上がる。
俊介は追わず、空へ消えてまた落ちてくるのを見た。
スタンド席は、自宅でも職場でもない。
昔の自分へ戻る場所でもなく、今さら何かを始める場所でもない。
ただ、責任のない一球を眺め、風に茶を冷ましてもらう場所だった。
帰る頃、上着には芝と土、缶珈琲の香りが残り、家族へ話すほどではない穏やかな朝が、胸の中で長く続いていた。