ステージ袖の心拍
〈脈拍標本〉の解散ライブは、ドラマー榎戸の心臓病を理由に開かれた。
今夜の最後の一曲も、彼はステージに出ない。舞台袖の簡易ベッドから心拍を送り、その数値をキック音へ変換する。ボーカルの菱川紫乃は、病人まで演出に使う会社へ反対したが、榎戸自身が「最後に本当のテンポで叩きたい」と譲らなかった。
曲名は〈不停止〉。
「止まらないで」
イントロで、七十二の心拍が暗い会場を打つ。スクリーンには緑の波形。Aメロが進むと脈は八十、九十へ上がった。紫乃は舞台袖を見た。カーテンの向こうに医師とプロデューサーの影がある。
榎戸が倒れたのは三か月前、契約更新を拒んだ翌日だった。会社は先天性疾患と説明したが、紫乃は彼の胸に円い痣を見た。プロデューサーが携帯する護身用スタンガンと同じ形だった。
「止まらないで」
サビでキックが不規則になった。二拍、休符、三拍。音響画面は〈過去ログ再生〉へ切り替わる。現在の心拍ではない。榎戸の腕時計が、倒れた夜に記録した波形だった。
心拍の下から、床を這う雑音が浮く。
――更新しろ。
プロデューサーの声。放電音。榎戸の叫び。心拍が二百まで跳ね、突然途切れる。
舞台袖のプロデューサーが送信機を切ろうとする。だが現在の榎戸がカーテンを開け、車椅子のままパッドを叩いた。彼の心臓は動いている。会社が隠したかったのは病気ではなく、暴行で生じた不整脈の記録だった。
最後のサビでは、生のドラムと過去の心拍が重なる。紫乃の声は泣き崩れそうになり、それでも一音ずつ前へ出た。会場後方で待機していた捜査員が舞台袖へ向かう。
最後の一音となる一打と同時に、腕時計のデータが外部保存された。画面には〈録音継続中〉の赤い点が残る。プロデューサーは紫乃へ、今すぐ曲を止めろと叫んだ。
紫乃は赤い点を指した。
「止まらないで」
榎戸の心臓へ生き続けてと願う言葉ではない。暴行を病名へ塗り替えさせないため、証拠の記録を一秒も止めるなという命令だった。