ピアノの蓋に映る稲妻
音楽室で伴奏の練習をしていると、雷が鳴った。
窓が白く光り、すぐに豪雨が校舎を包んだ。私は鍵盤から手を離した。廊下へ出ようとすると、後ろの席で居眠りしていた彼が顔を上げた。
「まだいたの」
「雨宿り」
「授業終わったの、一時間前」
「そのときから予報を信じてた」
彼は合唱練習をさぼる常習犯だった。声が出ないわけではない。出そうとしない。
「帰れば」
「傘ない」
「私も」
「じゃあ弾いてよ」
私は断った。誰か一人に聴かれるほうが、クラス全員の前より緊張する。
彼はピアノの蓋に映る窓を見ていた。稲妻が走るたび、黒い表面に二人の顔が浮かぶ。
「姉が弾いてた曲に似てる」
彼が言った。
「お姉さん?」
「去年まで、この学校にいた」
それ以上聞かなくても、声が沈んだ理由がわかった。卒業したのではないらしい。
「合唱、嫌いなの?」
「みんなで同じ息を吸うのが苦手。姉が入院してから、息って言葉が嫌いになった」
雨が窓を打つ。私は楽譜を閉じた。去年の合唱祭の写真で、彼の隣に同じ目をした先輩が写っていたことを思い出した。写真の彼だけが、カメラではなく姉の横顔を見ていた。
「じゃあ、伴奏だけ聴いて」
「歌わなくていい?」
「今日は」
最初から弾いた。
途中で雷が落ち、音楽室の電気が消えた。手元は暗くなったが、私は止めなかった。窓の稲妻が鍵盤を一瞬ずつ照らす。
二番に入ったところで、背後から小さな声が重なった。
彼は歌詞ではなく、母音だけで旋律を追っていた。息を吸う音も聞こえた。
曲が終わると、暗闇の中で彼が言った。
「今日だけだから」
「何が」
「歌ったの」
「明日は?」
「雨なら」
翌日も雨だった。
彼は楽譜を持って音楽室へ来た。その次の日は晴れたが、やはり来た。
本番の日、彼の声がクラスの中から聞こえた。誰より大きくはなかった。けれど伴奏席の私には、最初に息を吸う音までわかった。
今でも雷を見ると、黒いピアノの蓋に浮かんだ、歌う前の彼の顔を思い出す。雨宿りは、声が戻るまでの短い前奏だった。