一ミリのがたつき
羽生田百花は喫茶室「薄荷鳥」で、同棲用の賃貸契約書を開いていた。
図面上では二人分の寝室が広く取られ、恋人の自転車を置く土間もあった。百花の机だけが、家具配置のたび消えた。『ノートパソコンならどこでもできる』という言葉が、内見後も耳に残っていた。
契約を見送れば、恋人は怒るかもしれない。けれど揺れるたび黙る部屋を、何年も自宅とは呼べそうになかった。
駅から近く、家賃も予算内。恋人は「これ以上はない」と言った。ただ、百花が在宅で翻訳をする机の場所はなかった。寝室の隅で十分だと言われ、オンライン内見でも話はそこで終わった。
今夜中に申し込まなければ、別の人に決まるかもしれない。百花は自分だけが細かいことを気にしているようで、署名欄を埋めかけていた。
店主が置いた桃色のカップは、受け皿の上でかすかに揺れた。取っ手へ触れるたび、かち、かち、と小さな音がする。底が一ミリほど歪んでいるらしい。
店主は紙片を挟んで止めようとはしなかった。カップを持ち上げ、受け皿の中央、右端、左端へと置き直す。どこでも揺れる。最後に受け皿を外し、木のカウンターへ直接置くと、音は止まった。
百花はコーヒーを飲んだ。支える場所を変えただけで、カップは静かになった。底の歪みを責める必要も、揺れる音を我慢する必要もなかった。
契約書の間取り図を拡大する。机を置ける場所は、本当にない。恋人が快適だと思う部屋と、自分が働ける部屋は、同じではなかった。
会計で店主は、受け皿とカップを別々に拭いた。揃いだからと無理に重ねず、カップは木の棚へ、受け皿は引き出しへ収める。どちらも捨てなかった。
百花は申し込み画面を閉じた。恋人へ、〈あの部屋は契約しない。私は仕事部屋が取れる物件を探す〉と送る。
続けて、一人入居可の別の物件へ内見を申し込んだ。二人で住むかどうかは、そのあと考えることにした。
返信が来る前に店を出る。扉のベルが鳴っても、背後のカップはもう揺れていなかった。