一分早い毒

 蛇ノ目沙羅は、開始音が鳴るより早く杯を掴み、鳴った瞬間に飲み干した。

 隣の心理学者は、まだ二つの杯を見比べていた。

《開始から一分以内に一杯を選んで飲め。生き残った者が勝者となる》

「先に飲めば、私が安全なほうを選べる」

 心理学者は沙羅の顔色を観察しながら言った。

 沙羅は答えない。

 開始前、係員は二つの杯を同時に置き、同時に蓋を外した。もし片方だけが毒なら、そこまで時刻を揃える必要はない。時間そのものが仕掛けだと、沙羅はその手つきで読んだ。

 残り四十秒。彼女の喉は焼けず、呼吸も乱れない。相手はそれを確認してから、もう一つの杯へ手を伸ばした。慎重に匂いを嗅ぎ、舌先で味を確かめ、最後の五秒で一気に飲む。

 直後、男の瞳孔が開いた。

『勝者、蛇ノ目沙羅』

 男の杯の底には、半分ほど溶けた透明な球が残っていた。沙羅の空杯にも、同じ球が器の底へ貼りついている。ただし彼女が飲んだ時、それはまだ硬く、液体へほとんど溶けていなかった。

「二つとも毒入り……」

 男が喘ぐ。

「『毒入りの杯は一つ』とは言われていない」

 透明な球は遅れて溶ける毒だった。主催者は二択を装ったが、本当の選択は杯ではなく時間。迷わず飲めば水だけが喉を通り、観察して待つほど毒が混ざる。

 壁には二杯を映す大きな画面があり、残り時間より杯の色変化を拡大していた。見ろ、比べろ、待てという無言の誘導だった。沙羅は画面ではなく、係員の手を見た。

 沙羅が気づいたのは、開始前から杯の底に小さな気泡が増えていたからだ。どちらにも同じ数だけ。片方を安全と見抜くゲームなら、両方に同じ変化は起きない。

「私を実験台にしたつもりだったのに……」

 心理学者が床へ手をつく。

「主催者も、それを期待してた。相手が倒れるまで待つ人間を撮りたかったのよ」

 沙羅は監視窓を見上げる。

「でも、観察は長ければいいわけじゃない。最初の一秒で十分なこともある」

 扉が開く。

 心理学者の時計だけが、倒れた手首でまだ秒を刻んでいる。

 空杯の底で、飲まれなかった毒球が静かに溶け続けていた。