一分遅い時計

喫茶「雨粒」の時計が、午後十一時五十九分を指した。

「あと一分」と室生奈緒が言った。

「何が」

「今日」

向かいの桐島葵は、空になったカップを回した。

「一分で明日になるだけ」

「明日の朝、あなたはいない」

「飛行機は九時。まだ九時間いる」

「寝るでしょう」

「寝ないかも」

「そういう雑な慰め、嫌い」

店は十時に閉まっていた。

店主は二人を残し、奥で帳簿をつけている。

葵は明日、海の向こうの研究所へ移る。帰国は三年後。奈緒は送別会で笑い、駅まで送ると言わず、この店で最後のコーヒーだけ飲むことにした。

秒針が十二を指した。

けれど長針は動かなかった。

時計は十一時五十九分のまま、秒針だけがもう一周を始めた。

「壊れた」と葵が言う。

「都合がいいね」

「何に使う?」

「一分じゃ、何もできない」

「何か一つはできる」

奈緒は言うべきことを並べた。

行かないで。

三年前から好きだった。

待っている。

忘れないで。

どれも一分に入る。

どれも言った瞬間、三年では済まない重さになる。

「向こう、寒い?」

奈緒は尋ねた。

「冬はね」

「手袋、片方なくすなよ」

「なくしたことない」

「高校の修学旅行」

「あれは奈緒の鞄に入ってた」

「貸してって言ったの、そっち」

「返さなかったの、そっち」

二人は笑った。

秒針が半分を過ぎる。

葵が言った。

「奈緒」

「何」

「猫の写真、送って」

「毎日?」

「週一でいい」

「毎日送る」

「通信料」

「研究所の経費で落として」

「猫を研究対象にするな」

あと十秒。

奈緒は葵の手元を見た。爪の形まで覚えているのに、触れたことはほとんどない。

五秒。

葵の指がテーブルの上を少しだけ進んだ。

奈緒も手を伸ばした。

二人の小指が触れた瞬間、長針が動いた。

時計が十二時を打つ。

余分だった一分は、何事もなかったように終わった。

「明日になった」と葵が言った。

「うん」

「行ってくる」

奈緒は、小指を離さなかった。

「気をつけて」

それだけだった。

好きとも、待つとも言わなかった。

約束にすれば、離れる三年が借金になる気がした。

葵は店を出る前、振り返った。

「三年後も、ここで」

奈緒は時計を見る。

「閉店前に来て。次は一分じゃ足りないから」

扉が閉まり、奈緒は一人になった。

壁の時計は十二時一分を指していた。

一分遅れたのではない。

言えなかった言葉を、急がなくていい場所へ置いてきたのだと思った。